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○○に耳あり○○に目あり

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○○に耳あり○○に目あり

 小さな花が窓辺の花瓶に活けてある。
 こんな小粋なことをするのは、目の前のトンガリ少年ではなくて彼のお姉さんの仕業だろう。「可愛い花だね」といえば、案の定少年は訝しげに花瓶を見つめて、「さっきまではなかったはずだが」と首をかしげた。やはりこの花は彼の姉による演出と思っていいようだ。

 このトンガリ頭の少年の姉はいろいろな花言葉を知っていて、聞けば大抵の花言葉を答えれるほど花に詳しいし、時折自分宅の庭で自ら花を育てていることがある。今日も家に上がる前に庭をちらりと見たが、赤と白のポインセチアが花壇にたくさん植わっていた。おそらく彼女が植えた物だ。
 愛情は声なき物に注ぐだけに留まらない。手作りの菓子に花を添え、弟に持たせて届けてくれることも多々あった。人に対しても優しいのは確実だ。事実家にお邪魔する際に何度か会う機会があったが、どんなときも優しく丁寧に対応してくれる。
 姉が居ない名前3にとって、彼女はまるで本当の姉のような存在だった。好きかどうかと問われれば、迷うことなく好きだと言える。ある意味崇拝するほど懐いてるわけだが、残念ながら純粋無垢な名前3は、彼女が名前3を見るたびによからぬ妄想を抱いては、実際に妹になってくれればいいのに…と切に願っている事実を知るよしもない。



「それにしても、まさか大学が急にインフルエンザの影響で2週間休校になるなんて思いもしなかった。」



 男性が主にしてはやけに小奇麗な部屋で、名前3は昨晩送られてきた友達からのメールの内容を嬉々として読み上げた。今世間を騒がせている新型インフルエンザの大学における発症者がとうとう規定値に達し、2週間の休校になったという知らせだ。突然出来た14日という暇な時間をどうしようかと考えた結果、昔住んでいた町の幼馴染みに連絡を取ってみた。話の流れで久々に会おうということになり、せっかくの長期休暇なのだから遊んですぐ帰るのは勿体無い、泊まって行けという言葉に二つ返事したのは昨日晩のこと。何日でも泊まっていいと言われたので、とりあえず4日分の下着と衣服と化粧品一式を詰めてきた鞄はパンパンだったが、すぐ近くの町まで迎に来てくれた幼馴染みが再会するなり持ってくれたので、道中その重さに参ることはなかった。会うのは高校を卒業した春以来だ。

 久々の真白<まさら>町、久々の幼馴染みの家、久々の幼馴染みの部屋。不思議と心はわくわくし、もともと溌剌とした性格もあいまってテンションも軽快なものとなる。カーペットの上に置かれた白いクッションが昔から名前3のお気に入りで定位置でもあり、それは幼馴染みも心得ていた。ずっと昔からある年代物だからそれなりに汚れてボロくなってしまっているが、今なお捨てずに取ってあるのはそのためだ。その向かい、ガラス机を挟んだ正面には、汚れは目立たないものの、年代を感じさせるほど色あせた黒いクッションが置いてある。そこは幼馴染みが座る場所だった。けれども彼はすぐには座らず、一旦名前3の鞄を肩から下ろして勉強椅子の上に置くと、少しの間廊下側に面する飾りも何も無い殺風景な壁を見て、小さく息をつきながらドアを開けた。



「姉さん、何してるんだよ。」
名前3ちゃんが来てるって聞いたからご挨拶しておこうかしらと思って。」
「だからといって壁にへばりつく必要性は無いと思うんだが。そもそも手にある丸まった雑誌は何だよ。」
「通路をゴキブリが歩いていたから、恐くて出来るだけ避けていたの。コレはヤツ撃退用の武器よ。」
「仕留めたのか?」
「イーブイが咥えてどこかに持っていっちゃったわ。」
「アイツ…。」



 幼馴染みことグリーンが対話している人物は間違いなく彼の姉であるナナミだ。名前3はすぐさまクッションから跳ねるように立ち上がってドアに近付き、グリーンの腕の下から頭を出して廊下を窺った。敬愛するお姉さまに挨拶しなければ気がすまない。けれども廊下に居たナナミを見て言葉に詰まる。ナナミは壁に抱きつくような、なんとも奇妙なポーズで固まっていた。先ほどの会話の流れからすると、名前3に挨拶をしに2階のグリーンの部屋前まで来たはいいが、そこでうっかりゴキブリに出会ってしまった。避けつつも雑誌『月刊花畑』で撃退しようとしたところ、イーブイという名を持つ老齢のゴールデンレトリバーが咥えて持っていってしまったようだ。イーブイはグリーンにとても懐いていて、グリーンを見れば所構わず舐めたがる癖がある。その口がゴキブリを咥えたとなれば、グリーンも思わず嫌な顔をせずにはいられないのだろう。案の定、その端麗な顔は極限まで眉を顰めていた。蚊やてんとう虫程度ならここまでなることも無いが、ゴキブリとなれば無理も無い。どうやってフォローすればいいか分からないので、とりあえずイーブイの一件はさておき、名前3は己より少しだけ背が高いナナミを見上げて口を開いた。



「ナナミさん、お久しぶりです!」
名前3ちゃん!久しぶり、相変わらず可愛いわね。」



 ナナミはすぐさま壁から離れて姿勢をただし、今までの恥ずかしい格好を一瞬にして吹き飛ばすほどの極上な微笑を浮かべて名前3を見る。グリーンは人生の中でも特に女性関係において相当得をする外見をしているが、姉であるナナミは声を失うほど絶世の美女だ。事実、あらゆる男性に言い寄られては手紙を渡されメールを送られ携帯のコールは鳴り止まないほどの人気ぶりらしい。それであるにも関わらず、いっこうに恋人を作らないものだから、実は男に興味が無くてアブノーマル路線を突っ走っているのではないか、といつだったかグリーンに相談された記憶があった。さすがにお互いナナミ本人にそれを聞く勇気はなく、未だ真偽の程は定かではない。ナナミの独り身は兄弟の心配を誘うだけに留まらず、真白<まさら>町七不思議の一つと言われるまでの大事に発展しているらしい。生きながらにして怪奇現象扱いされる美女というのも、この広い世界を探したってそう居はしないだろう。少なくとも今名前3が住んでいる玉虫<たまむし>市にそのような事例は無い。そんな美しさを極めたナナミに可愛いなどと言われると、この上なく照れくさい。名前3は頬が染まるのを感じて、慌てて全力で首を左右に振った。



「可愛くなんてないですよっ!」
「ふふ、そういう所が可愛いの。」



 花を育てるからには土を弄るはずなのに、一切土汚れや荒れが見られない白い指が名前3の頬に触れる。細いながらもマシュマロのように滑らかで柔らかい指の腹が、輪郭を確かめるかのごとく下から上へとなぞり上あがる。そのくすぐったさに名前3が身を捩るより早く、グリーンの手がナナミの動きを遮った。これ以上ナナミが名前3に触れられないように、しっかりその腕を掴んでいる。



「姉さん!名前3は喉が渇いているからお茶を頼む。」



 頭上を慌てたようなグリーンの声が通り過ぎていった。別にそこまで喉が乾いているわけではないのに。異論を唱えようと顔を向けると、グリーンは珍しく額に汗を流して真剣な顔でナナミを見据えている。若干引け腰に見えるのは気のせいだろうか。否、実際にグリーンは恐いものを目の前にしたときのように腰が引けていた。実の姉を目の前にしてこんな風になるグリーンを見るのは初めてだ。思わず言葉を失った名前3の反応を、ナナミはグリーンの言葉を肯定したと捉える。



「あら私ったらやだ、お客様にはまずお茶をお出しするのがマナーなのに。久しぶりすぎて浮かれてたわ。淹れてくるわね。」



 ナナミは掴まれた腕を軽く振ってグリーンの手から抜け出すと、忘れず名前3にニコリと微笑み、軽快な足取りで階段を下りていった。片手の『月刊花畑』は、依然丸められたままだった。



名前3、部屋に入れ。」
「え、あ、わっ。」



 グリーンはいつになく乱暴な手つきで名前3の肩を掴み、部屋の中に押し込む。名前3は己の足同士をからめそうになりながら、ふらふらとよろけつつ白いクッションの上にボスっと腰を下ろした。別にこの程度で腹は立ちなどしない。ただ、いつもとは違うグリーンの様子が不可解だ。名前3が珍獣を見つめるような気持ちでグリーンに視線を送る中、グリーンはやはりすぐには座らず、ひとしきり部屋の中を見回して、次の瞬間本棚にダッシュしていた。本棚の上には幼少時代のグリーンとナナミ、そしてその間に挟まれるようにして立つ名前3の3人が映った写真が飾ってあるのだが、グリーンは何を思ったのか印刷面が下になるように写真たてを倒した。何度も見たことがある写真だ、今更見られて困るわけでもないだろうに。一体隠すことに何の意味があるのだろう。



「グリーン?」
「…姉さんに見られてる気がした、それだけだ。」



 写真の中のナナミは幼子にしてはやけに大人らしいはにかみを浮かべて映っていたはずだ。彼女が本来見つめているのはカメラマンが持ったカメラであるが、見る側としてみれば、確かに写真の内側から見られているような気にならないこともない。だが、そこまで気にするほどのことだろうか。
 グリーンの奇行はそれだけにとどまらなかった。黒いクッションに座ろうとかがんだ彼は、片膝をクッションにつける寸前で何を思ったのか、クッションの下に手を突っ込んだ。抜き出した手が掴み取るのは昔流行ったぶーぶークッションだ。座る前に気付くなんて、なんと勘のいい事だろう。けれども手の中のぶーぶークッションをしげしげと眺めるグリーンの姿が実にシュールで、名前3は思わず吹き出した。まるで狙ったようなタイミングで下の階から足音と食器がぶつかる音が聞こえてくる。



『グリーン、開けてくれる?』



 ナナミのおっとりとした声が廊下に響き、グリーンはドアとぶーぶークッションを交互に見やった後、手の中のそれを握り締めたままドアに寄った。ノブを回して軽く押すと、お盆の上にカップとソーサーを乗せたナナミが入ってくる。



「この前ノーマークで面白いお茶を見つけて買っちゃったの。ジャスミンティーなんだけど、飲み頃になるとパックの中の花が開いていくんですって。名前3ちゃんのお口にあうかわからないんだけど…。」



 低いガラステーブルの上に、手際よく二人分のソーサーとカップが並べられる。カップにはまだ茶漉しが乗ったままだった。その中で無数の蕾が湯に揺らいでいる。飲み頃になるとこれらが開いて知らせてくれるのだろう。中にはすでに開いている花弁もある。普通のお茶と違い、独特の香りが鼻をついた。嫌な香りではない。飲み物にまで花にこだわるあたり、本当に花が好きなことが窺える。茶のセッティングを終え、膝をついたナナミが立ち上がろうとしたときだった。一部始終ナナミの様子を見届けていたグリーンは、無言でナナミが持つお盆の上にあのぶーぶークッションを乗せる。



「グリーン引っかかった?」



 ナナミはケロッとした顔で、グリーンではなく名前3に問いかけた。グリーンが座る黒いクッションに仕掛けられていたことを分かりきった上での質問だった。子供だましのようなあれを仕掛けたのはナナミで間違いないらしい。こんなこと絶対にしなさそうな顔なのに、意外だった。名前3が答えるよりも早く、むすっとしたグリーンがナナミと名前3の間に割って入る。



「引っかかるわけないだろう。不自然な盛り上がるでわかる。」
「あら残念。名前3ちゃんに面白いものが見せられるとおもったのに。」



 ナナミはお盆を持っていない手を口元に当ててクスリと笑った。大人の魅力というのだろうか。ただ笑っただけのはずなのに、その仕草が名前3にはやたら色っぽく見えた。何故かどきまぎしてくる。ナナミはそのことに気付いているのかいないのか、名前3に向けて片目を瞑る。きっとこの悪戯っぽい笑顔に数多の男達が堕ち、涙を流してきたのだろう。しかし、色気たっぷりのナナミの魅力は実の弟には通用しなかった。いくら名前3を楽しませるためだといっても、このようなアイテムを用いられるのはグリーンにしてみれば不毛でしかない。



「姉さんは退場。」



 これ以上干渉されては敵わんと言わんばかりに、グリーンはナナミの体を部屋の外へと押しやる。



「あら、私も名前3ちゃんと話したいのに。」
「後で話せばいいだろ。長旅だったんだ、少し休ませてやってくれ。」



 口では不満をもらしつつ、ナナミは素直にドアの向こうに出た。実際のところ、名前3と話すよりグリーンにちょっかいをかけることを楽しんでいるようにも見える。それをグリーン自身も察しているのか、とにかくこの空間から自分に最も近い身内を追い出すことに必死だ。ナナミは一度は部屋を出たものの、思い出したようにもう一度部屋の中に首を突っ込み、名前3を見た。



名前3ちゃん。」
「はいっ。」
「何かあったら叫ぶのよ。すぐにかけつけ」
「あーもーっ!!!!ね・え・さ・ん!!!!」



 とうとうグリーンは痺れを切らして姉を押しやりドアを閉めた。外からはこらえきれない笑い声が少しの間聞こえていたが、グリーンを弄ることに満足したのか、やがて足音は下の階に移動した。実際に確かめなければ不安なのだろう、グリーンはもう一度ドアを開けて廊下に誰も居ないことを確認して閉めなおす。鍵がついていれば間違いなくかけているだろう。ナナミは確かに去った。しかし、あのぶーぶークッションのせいで疑心暗鬼になっているのか、せわしなく首を動かしては室内に異常が無いか調べはじめる。1分後、彼はようやく黒いクッションに腰を下ろした。そうこうしているうちに茶漉しに浮かぶ蕾は全て開ききっている。開くまでの過程を見逃したことに名前3は少しだけ勿体無さを感じた。茶漉しをカップから引き上げて専用の器にいれる。その間も独特の香りは褪せない。



「そういえばグリーンは大学行かなくていいの?」



 自分の通う大学が長期にわたって休校になったはいいが、そのことに浮かれてグリーンが大学に通っていることをすっかり忘れていたことに気付く。世界的に有名な医師である祖父の後を追うように、彼もまた医師になるため少し離れた町の医大で勉学に励んでいるはずだ。間違いなく忙しいだろう。今更になって何も考えずに遊びに来たことを悔やんだが、グリーンはこれといって困ったような顔をするわけでもなく、返事をするより先に立ち上がってテーブルの上に無造作においた一枚の紙を掴み、名前3に手渡した。A4の印刷用紙には臨時休校の文字が大きく載っている。



「これ…。」
「うちの大学もインフルエンザのせいで一昨日から休校になってる。」



 その言葉通り、用紙には一昨日の日付から2週間後まで、大学内の施設全てが閉鎖し授業も行われないことが書いてある。偶然にしては出来すぎた話だ。だが、そのお陰でこうして会うことが出来た。不謹慎だが名前3は新型インフルエンザの到来に少しだけ感謝した。けれどもグリーンは名前3の手の中の用紙を見て、何を思い出したのか急に眉をしかめた。



「医師になるために勉強してるのにそいつらが率先して病にかかってどうするんだよ、って大学評論家どもや祭り好きなやつらに叩かれまくってるんだ。」



 近頃の世間の目は教育に対して厳しい。それなりに名の通っている医大が2週間もの長期閉鎖ともなれば、待ってましたとばかりにあれやこれやと文句を言い始めるのは当然の結果だ。名前3は思わず「ごめんなさい。」と謝った。何に対しての謝罪か分からなかったのだろう。グリーンは虚を突かれたように口に運びかけていたカップをソーサーに置きなおす。



「何でお前が謝るんだよ。」
「こうしてグリーンに会えたのは学校が休みになったお陰だから、嬉しかったの。グリーンは病気で苦しむ人たちを助けるために勉強してるのに不謹慎だよね、本当ごめん…。」



 名前3はもう一度謝って手の中のカップを見る。波打つ琥珀色の水面に、自分の翳った顔が映っているのが見えた。ふいに額の辺りに気配を感じて顔をあげると、グリーンの手のひらがすぐそこに迫っていた。手は名前3の頭に触れると、髪を分け入って左右にふれる。グリーンが自分の頭を撫でているのだと気付くまで、少し時間がかかった。手の先に見えるグリーンの顔はこれといって怒っている風でもなく、どちらかといえば呆れたように苦笑している。



「そんな顔するなって。大勢の人がインフルエンザにかかったことに喜んだわけじゃないだろ。オレに会う時間が出来て嬉しいんだったら、謝ることなんてないぜ。」
「でも…。」
「それに、オレも久しぶりにお前と会えて嬉しいしな。」



 端正な顔がニッと笑う。つられて己の口元にも笑みが浮かぶのを名前3は感じた。気を取り直して手の中のジャスミンティーに口をつければ、先ほどまで鼻孔をくすぐっていた香りが一層強くなり、不思議な味が広がる。これまでに飲んだことのない独特な味だ。美味しいかどうかと問われればなんとも言いがたいが、変わった味を楽しみたい人にはこの上なく適していると言えるだろう。とはいっても、それはあくまで名前3の主観であり、目の前のグリーンが同じ意見とは限らない。



「なぁ名前3、これって美味いか?」



 茶を飲む間の微妙な沈黙を先に破ったのはグリーンだった。突然の質問が今まさに考えていたことだったため、心の中を読まれたのかと焦った。



「うーん。よくわからない味。」
「だよな。」



 素直な気持ちを伝えると、グリーンから返って来たのは同意の言葉だった。意見に食い違いが無くほっと胸を撫で下ろした瞬間、突如としてドアを叩く音が室内に木霊する。



『ちょっといいかしら。』



 廊下におっとりとした声が響いた。ナナミだ。タイミング的に今の会話を聞かれてしまった可能性が高い。お世辞でも美味しいと言わなかったことを後悔するが、もう遅い。名前3はすぐさま立ち上がってドアを開けようとする。だが、グリーンがそれを遮ぎるように名前3の手を掴んだ。



「グリーン?」
「座ってろ。」



 グリーンは声を潜めて名前3に耳打ちすると、軽く肩を押して座るように促す。やけに神妙な面持ちでドアを見ているものだから従うしかなかった。一体どうしたというのだ。名前3が再びクッションに座ったことを確認して、グリーンはドアを開く。



「どうした?」
「今度はチャイを淹れてみたんだけど、飲む?」



 飲むかどうかを聞きに来た割には、既に新しいソーサーとカップが二人分お盆に乗っているのが見えた。明らかに飲ませるだ。グリーンは新しい飲み物の登場に数秒沈黙したが、一言「飲む」と呟いてナナミを招き入れる。その顔はやや引きつっているように見えなくも無かった。ナナミはノブを持ったまま棒立ちになったグリーンの横をすりぬけて、再びガラステーブルの横に膝を着き名前3に笑顔を向ける。



名前3ちゃんシナモンは大丈夫?」
「はい。大丈夫ですよ。」
「ならよかった。これも面白い味だから試してみてね。」



 ナナミはテーブルの上に並ぶジャスミンティーを飲んだ残骸を一旦床におろしてお盆の上からチャイをテーブルに移す。飲み終えた空のカップがお盆の上に乗せ終わると、グリーンに追い出される前に自ら部屋を出て行った。しかし、グリーンとすれ違う瞬間、



「あのチャイ、ガラナ入りなんですって。」



 意味深な笑みを浮かべながら言い放つ。途端にグリーンは普段変えることのない顔色を赤く染めた。何故そこで顔を赤くするのか名前3にはわからない。けれどもナナミはそうなることを予想していたようだ。余裕の笑みを浮かべる顔にそう書いてある。



「だからって変なことしちゃだめよ。じゃあごゆっくり。」
「姉さ――」



 グリーンが呼び止めるより早く、ナナミの手によってドアが閉まった。食器がぶつかる小さな音とナナミの足音が1階に下りきる。グリーンはやはり一度ドアを開いて廊下を見渡し、慎重にドアを閉めた。用心深いにも程がある。



「ねぇグリーン、ナナミさん、ガラ…ナ?がどうとかって言ってたけど、どういうこと?」



 名前3の疑問にグリーンは声を詰まらせた。まさかこの質問をされるとは思っていなかったのだろう。恥ずかしいことでもあるのか、赤みがおさまりかけていた顔が再び赤くなる。見ている側としては面白い。グリーンは空気を求める魚のように無言でパクパクと口を数度開閉した後、腕を組んで考え込み、やがて一つの答えを導き出した。



「ガラナは疲れが取れて元気が出る成分なんだよ。オレが名前3は長旅で疲れてるなんて言ったもんだから持ってきたんだろうな。」



 さすが医大生。的確な答えに名前3は納得した。ただ、それの一体どこに顔を赤らめる要素があるのか分からなかった。
 そういえば、大学の自販機にガラナドリンクという炭酸飲料が売っているのを思い出す。まるで栄養ドリンクのようなパッケージのそれには、『元気が出る』といった宣伝文句が書いてあった気がしないでもない。グリーンの言葉を真に受け取ったナナミは、名前3のためにわざわざガラナ入りのチャイを探し出して淹れてくれたのだ。自分のためにそこまで気を遣ってくれるとは。なんて優しいのだろう。名前3は感激しながらチャイに口をつける。お茶とシナモンとミルクとガラナという摩訶不思議な融合体のそれは、さっき飲んだジャスミンティーよりも美味しかった。









 美味しいと呟きながらチャイを飲む名前3を傍目に、グリーンは今しがた起こった出来事を突っ立ったまま回想していた。まず一つ目の問題点は、ナナミが完全に気配を消して2階に上がってきたことだ。あの時は名前3と話し込んでいたから、意識は名前3に集中していた。だからといって、食器をのせたお盆を持って2階に上がってくる人間の物音くらい絶対に気付く。その物音が今回に限って全く無かった。普通じゃまず考えられない。まさか自分の姉は忍者だとでもいうのだろうか。そんな話し、祖父にも両親にも、本人にもされたことない。
 もう一つの問題点は、ナナミの最後の発言にあった。名前3にはガラナの成分の効果だけを差し障りが無いように説明したが、ナナミがすれ違い様に言ってきた時、グリーンはうっかり、ガラナの純粋な効果よりも先に、ガラナがよく使われているある商品達を連想してしまったのだ。疲れにいいとされるガラナは、名前3の大学にあるように健全な栄養ドリンクとして売られていることもあれば、薬局の片隅で夜のお供用滋養強壮剤に含まれて販売されていることもある。グリーンはよりにもよって後者を連想してしまったのだ。ナナミはそうなると分かっていて、わざとあの場で言ったに違いなかった。



(姉さんは何がしたいんだよ。まさか本当に名前3のこと好きなんじゃないだろうな…。)



 可愛がる程度の好きという気持ちならまだしも、ナナミの名前3に対する愛情はどこか健全さを欠いている気がしてならない。ナナミが名前3と会ったときにその頬を触る場面を思い出し、グリーンは今日から名前3が我が家に泊まることに猛烈な不安を感じた。幼い頃から好きな人が、よりにもよって自分の姉に奪われるなんて事態になったら泣くだけでは済まされない。なんとしても避けなければ。ナナミのことだ、同性という特権を利用して、一緒にお風呂に入ったり一緒の布団で眠ろうとするに違いない。性別の壁がある以上、圧倒的にグリーンは不利だった。



「どうすれば姉さんに勝てるってんだよ。」
「…リーン、グリーン。おーい。」



 ぶつくさとドアに向かって独り言を呟くグリーンが名前3の呼びかけに気づくのは、それからたっぷり10分後のことだったという。



























「今のところ、ふしだらな展開にはなっていないみたいね。」



 1階のリビングで、ナナミは優雅に机の上に立っていた。椅子に座るのではなく、机の上に立っていた。くどいようだが、机の上に立っていた。右手には携帯を、左手には『月刊花畑』を筒状に丸めて握り、穴の片方を天上にくっつけ、反対の穴に耳を当てている。糸電話の雑誌版とでも言えばいいだろう。耳に当てた雑誌の穴からは、2階の物音がなんとか拾える。リビングの真上はグリーンの部屋だった。今、名前3はチャイを飲み、グリーンはドアの前に立ってなにやら独り言を呟いている。その一連の様子がナナミの携帯の画面にしっかりと映っている。録画したものではなくリアルタイムの映像だ。映る映像の角度から、撮影機材は窓際にあることが分かる。それは名前3がグリーンの部屋に入るなり見つけた生け花が置いてある場所だった。



「写真立てをふせられた時はばれたかと思ったけど、花瓶にしかけたカメラには気付かなかったみたいね。」



 今の発言をグリーンが聞いたら、彼は躊躇うことなく2階の窓から野球選手ばりのフォームで写真立てと花瓶を遠くに投げ捨てただろう。しかし、2階の彼らの会話はナナミに筒抜けでも、ナナミの声があちらに伝わることはない。
 昨晩名前3が泊まりに来るという話を聞いて、ナナミはすぐさま作戦を立てた。作戦名は<とことんグリーンの邪魔をしてやろう作戦>だ。作戦の実行において重要なのは、いかなる状況下であっても二人の様子を把握すること。グリーンが名前3を迎に行っている間に、名前3とグリーンが二人きりになる可能性がある場所に最新鋭の小型カメラを仕掛けた。あまりに小さすぎて音声を拾う機能が備わっていないのが不便だが、半年ほど前に告白してきた某大手カメラ製造会社の開発スタッフである男に急遽持ってきてもらった物だ、いちいち文句は言ってられない。クリスマスにディナーに誘われていたことを思い出し、それを餌にして高性能の隠しカメラをタダでくれないかと頼んだわけだが、男はあっさりナナミの願いを聞き入れた。頼んでもいない1週間後に発売予定のデジカメまでおまけしてくれる始末だ。男とはなんと単純な生き物なのだろう。



「別に、欲望に任せて襲って既成事実を作って結婚しちゃってもいいのよ。そうすれば名前3ちゃんは本当の家族になるし。」



 ナナミは宙に向かってサラリと恐ろしいことを口にした。癒し系の雰囲気を漂わせる絶世の美女がこんな過激な発言をするなんて、一体誰が予想できただろう。彼女の祖父が聞いたら驚きのあまりそのままポックリ天に召されるかもしれないところだ。



「だけど、やっぱり名前3ちゃんが私以外のものになるのは嫌なのよね。」



 だからこそ、<とことんグリーンの邪魔をしてやろう作戦>なんてふざけた行いに走るわけだ。グリーンが名前3を愛しているように、ナナミもまた、弟と同じ人を愛していた。性別という大きな壁があるが、当のナナミはそんなこと知ったこっちゃなかった。



「この2週間のうちに、私のよさをとことんその身に染みこませてあげるわ…フフフ。」



 覚悟してね、名前3ちゃん。そしてグリーン。
 小さな呟きが天上の二人に届くことはない。
 机の下で口元に黒いカスをつけた老齢のゴールデンレトリバーだけが、全てを聞いていた。





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考えずに筆が走るままに物語を書くクセがあるのですが、とんでもなく時間がかかりました…。
ナナミさんが変態でごめんなさいね。

2009/12/11
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