秒針
秒針
日が暮れて夜が訪れると、家の中にある時計の秒針の音がやたら耳につく。
部屋の中に音を吸収するような家具等があまり無いぶん、音は余計に響いた。
日中は鳥の声や生活音などに溢れているから、時計の針ほどの音など、それらに紛れて気にならないだろう。
けれども夜は違う。
昼間騒がしく鳴き喚く鳥達は草木の茂みや軒下に身を潜め、人々は各々の家に帰り、外を歩かない。
途端に外から家に侵入してくる音が少なくなるわけだが、そうとなると、今度は家の中で立てられる生活音が、静寂をかき消す唯一の手法といえるだろう。
しかし、この真白<まさら>町のやや外れにある一軒屋は、日が暮れると途端に息を潜めたように静かになる。
それは、生活音を立てるはずの人が、家の中にたった一人しかいないからだった。
生憎そのたった一人である少女は、テレビやラジオといったものにさほど関心が無かった。
おまけに独り言も言わないものだから、余計に家の中の音は静寂に支配され、その中に時計の秒針の音だけが空しく響いている。
これは、そんな秒針が響くある晩のこと。
「…あ。」
机上に置いた滅多に鳴らない携帯が、メールを受信して震える。
マナーにしていても、その振動音は静寂を突き破るのに十分な威力を持っていた。
サブディスプレイに映るのは、幼い頃から知っている少年の名前。
それは少女の数少ない友であり、幼馴染みでもある少年からのメールだった。
「えっと…、『母さんが肉じゃが作りすぎてたくさん残ったからもって行く』って…。」
ピーンポーン。
間延びしたチャイムの音が玄関に木霊する。
椅子に腰掛け本を読んでいたは、すぐさま本に栞を挟み、椅子から立ち上がって玄関に走った。
開錠すると、が触れるよりも先にノブが回り、ドアが開いて屋外と屋内の間に隙間を作る。
夜の闇に紛れるような黒髪の少年が、滑るように玄関に侵入してきた。
「レッド!」
幼馴染みの名を呼ぶと、少年は少し息を切らしながらも、にこやかに笑みを浮かべて片手に提げた紙袋を突き出してくる。
「はい、肉じゃが。」
「わざわざありがとうね。」
おそらく走ってきたのだろう。
肉じゃががこぼれていないか心配になって紙袋を覗いて見ると、中のタッパーはしっかり閉じて密閉空間を保っていた。
出来立てなのか、ほんのり温かい。
「じゃ、お邪魔します。」
紙袋を覗き込むの傍ら、幼馴染みことレッドは言ったそばから靴を脱ぎ、家主の了承を得る間もなく家に上がる。
夜分、女子一人の家に男が堂々と侵入するとはなんとふとどきなことか。
昔の人が見たら途端に説教垂れるような現場だが、生憎のところ、この場にそんな良識溢れる人間は誰一人として居なかった。
こうしてレッドが夜に転がり込んでくることは、今に始ったことではない。
今更咎める理由も無いので、大人しくその後について部屋に入る。
「はもうご飯食べたのか?」
「ううん、あとちょっとしたら食べようと思ってた。」
「じゃあちょうどよかった。オレもまだ食べて無いんだ。一緒に食べよう。」
その言葉になんとなく違和感を覚え、あれ…と首を捻るものの、これといって違和感の正体が思い当たらない。
妙な引っ掛かりを心に残したまま、レッドをダイニングに残して台所に行く。
タイミングがいい事に、ご飯は丁度炊けた所だった。
炊飯器を開けると、蒸気と共に、艶めいた白米が顔を覗かせる。
二人分で食べるにしても、十分余裕がある量だ。
夜はいつも2合分炊く。それがの一つの癖だった。
2合炊いておけば、自分が食べた直後、あるいは食べる前にレッドが突然やってきて腹が減ったと言ったとしても、すぐさま温かいご飯を彼に食べさせられるし、自分の分もある。
逆に来なければ来ないで、晩に食べ切れなかった残りは翌朝に味噌汁と一緒に食べたり、おにぎりにしてお昼に食べればいいだけのこと。
2合炊きを始めたのは何を隠そう突然押しかけてくるレッドのためであるが、レッドはそのことに気付いているのかいないのか、どちらかといえば前者だろう。
ふらりとやってきては素知らぬ顔でぺろりとご飯を平らげて、気が済むだけ居座った後、朝日が昇る前に帰って行くのだ。
昼間は引きこもっているくせに、夜になると途端に活発になる彼の生態は、夜行性と言わざるを得ない。
その暮らしぶりはニートという言葉が似合いそうだが、一応自宅に居ながらネット上のHPの作成代行業やらにはよく分からないことをしてお金を稼いでいるらしい。
さすがに月収までは聞けないが、彼の部屋に転がるPCの並々ならぬ台数と性能のよさを見ると、実は相当稼いでいるのではないかと思われる。
全てはの勝手な憶測であるから、実際のところどうなのかは全く不明なのだが。
そういえば、レッドのために2合炊きを始めたのは、いつ頃からだろう。
思い出そうとして、止める。
きっかけを思い出す課程の中、確証に近付きかけたとき、ふと気持ちが悪くなったのだ。
「おばさんの肉じゃが、美味しいんだよね。」
記憶の奥底から掬い上げかけた不穏な因子を他所へ押しやるように、タッパーを開ける。
緩やかな蒸気と一緒に、芳醇な香りが立ち昇る。
美味しい匂いを目の前に、気持ち悪さは一瞬で遠くへ霧散した。
「…って、これ凄く多いっ。」
器の中には、溢れんばかりの肉とジャガイモと糸こんにゃくが詰まっていた。
3食分ほどの量はあると見ていいだろう。
そのあまりにも多すぎる量に、ピンとくる。
この肉じゃがは決して残りものなどではなく、最初からとレッドが食べる前提で作られた分量である、と。
そもそもレッドはメールの文面に晩御飯の残りと書きつつ、宅に押しかけた際には、まだご飯は食べていないと言っている。
おそらくレッドの母親はが気を遣わない様、わざと残り物と銘打って持ってこさせたのだろう。
いつも多方面で世話になっているが、その心配りには本当に頭が上がらない。
自分ひとりだけなら肉じゃがと白米だけで十分満足なのだが、レッドが居るとなると話は別だ。
せめてもう一品追加せねば格好がつかない。鍋に水をはり火にかけて、戸棚からインスタントの味噌汁を出す。
この際手作りで無いことには目を瞑ってもらうしかない。
パックの封と格闘していると、いつの間にかレッドが側に立っていた。
「、運ぶよ。」
「ありがと、じゃあ肉じゃがとご飯をお願い。」
器に盛り付けた二人分の2品をお盆で運んでもらっている間に、沸いた湯で二人分の即席味噌汁を完成させる。
下手をすると自分で味噌を溶いて作るよりも、このインスタント味噌汁のほうが美味しい場合があるから、インスタントだといって侮るわけにはいかない。
晩御飯の一品として十分通用するはずだ。
そう思い込むことにした。
味噌汁との箸及びレッド専用箸をお盆に乗せて運び、食卓の上に並べる。
既にレッドは椅子に腰掛けて肉じゃがを見つめていたが、の一連の動きに視線を移すと、じーっと注視しはじめた。
何かついているのだろうか。不安を感じたは己の体を一通り見てみたものの、これといって変なものは見当たらない。
「どうしたの、レッド。」
自分では分からないから、聞くしかない。
の問いかけに、レッドは真顔で押し黙る。
何かいけないことを言ってしまったのだろうか。
それとも、そんなに言い辛いことがあるのだろうか。
肉じゃがを目の前に、妙な緊張感が漂い始める。さっきまで雑音に溢れていた室内に、秒針の音が聞こえ出した。
1秒1秒が、ゆっくり、刻々と流れて行く。
秒針の刻まれる音が丁度60回聞こえた頃。
「のエプロン姿、見たこと無いなと思って。」
「え。それだけ?」
「それだけ。」
きっかり1分待ったにしてはちっとも重大でない発言に、危うく味噌汁の椀をひっくり返しかけた。
言われてみれば確かにそうだが、1分間も溜めるほどのことではないはずだ。
これまた妙な引っ掛かりを覚えたが、レッドが変なことを言ったりしたりするのは日ごろからのことだった。
その一つ一つを気に留めていたら、いくら身があっても足りないことは知っている。
「じゃあ、レッドのお母さん、ありがたく肉じゃが頂きます。」
「頂きます。」
胸の前で合掌し、少し冷めてしまった肉じゃがに箸をつける。口に含んで舌を巻いた。やはり美味しい。
レッドは相当お腹が減っていたらしく、あっという間に肉じゃがとご飯を胃袋に収めたが、にペースをあわせるよう、ちょっとずつ味噌汁を飲み始める。
「肉じゃがもう少し残ってるけど、食べる?」
「いや、明日のおかずにするといいよ。」
何気ない、普通の会話のはずだった。
けれども、
(明日の朝、私は一人でご飯を食べるのか。)
何処からともなく聞こえてくる、無意識下の胸の内の呟き。
妙な喪失感に、箸の動きが止まる。
「…?」
「あ、なんでもない!もともとレッドのお母さんが作ってくれたものなんだから、おなか空いたら遠慮せずに言ってね。」
「ああ、そうする。」
会話はそこで途切れた。
の食器が鳴る音に紛れ、時折レッドが味噌汁を啜る音が室内に木霊する。
その間、レッドはじーっと正面のを見ていた。
まるで何かを探るような、けれども考えていることが読み取れない視線に、どう対処していいか分からない。
やがて箸が掴むものを失い、器の底が見えた頃、
「横になってていいよ。オレが片付けしておくから。」
「え?」
いつに無く素早い動作で椅子を引いて立ち上がったレッドは、お盆に空の食器を積み上げ、流し場まで移動する。
は後を追おうと椅子から腰を浮かしたが、振り向いたレッドが少し怒ったように眉を顰めていたものだから、そのままの姿勢で固まった。こんな顔をするレッドは滅多に御目にかかれない。
「いつになくボーっとしてる。そんなんじゃ皿割って怪我するのがオチだぞ。」
そんなにボーっとしていただろうか。
思い当たる節は無くもないが、ほんの数秒程度だったはずだ。けれどもあのレッドの執拗な視線は、本人ですら気付いていない何かを感じ取ったのかもしれない。
そういった勘は、驚くほど鋭い。
さすがに滅多と見ることの無い顔で窘められては、もその言葉に背く気にはなれなかった。
心配してくれているのだ、素直に甘えさせてもらうに限る。
リビングのソファにもたれかかって、久々にテレビのスイッチを入れる。
あまりにも使っていないためだろう、リモコンにはそこそこ埃が積もっていた。
年末は近い。大掃除の時には細かいところまで掃除しないといけないな、と部屋を見渡す。
もともと家具やインテリアが少ない家だ。掃除は楽だろう。
白い壁の一点に目がいったときのことだった。
それは何の変哲も無いカレンダーだった。問題はその日付だ。
今日の日付をまじまじと見たは、思わず息を飲み、途端に視界が反転するような眩暈に襲われる。
面白く無い番組が、記憶にすら残らない雑音となって、ただ耳元を騒がせていた。
「……っ!…!!」
肩を揺すられて、真っ白になった視界が色を取り戻す。
最初に見えたのは赤く滲んだ塊だった。それはやがて二つに別れ、目であることを認識する。
ついで黒い髪が見え、肌が見え、部屋の内装が形と色を成して行く。
「!大丈夫か!?」
「あ、レッド…。えっと、どうしたの?」
何故そんなにも血相を変えて肩を揺すっているのか。状況が飲み込めない。
尋ねても、レッドは泣きそうな顔で見つめてくるばかりだ。
普段にこやかに笑っている姿しか見ないものだから、不安になる。
どこか痛いのだろうか、苦しいのだろうか。
どうしてそんな顔をするのか、分からない。
「レッド、どうしたの?もしかして食器割って怪我したの?痛い?泣きそう?」
「違う。」
肩を掴んでいた右手が、ス…との目じりを優しくなぞった。
温かいような、冷たいような、不思議な感覚が目の下を伝っている。
「泣いてるのはのほうだ。」
言われようやく、自分が涙を流していることに気付いた。
別に痛いわけでも、しんどいわけでもない。
だというのに、涙は自然と目の奥から滲み出してくる。
堰を切ったようにどんどんあふれて頬を伝い、ソファの上に小さな水溜りを作るまで、そう時間はかからなかった。
「私、なんで、泣いてるの。」
「………。」
答えは無い。
けれども、レッドの肩越しに見えたカレンダーの日付に、思わず「あぁ…。」と声を漏れた。
「そっか、今日だったんだね。」
「………。」
「お父さんとお母さんが、」
「。」
思い出さなくていいから。
言葉なくしても、そんな気持ちが伝わってくる。
は慰めるように目じりをなぞるレッドの手に頬を摺り寄せて、目を閉じた。
思い出すのは2年前の今日の出来事。
海に隣接した真白<マサラ>町を、突如として嵐が襲った。
防波堤の決壊を食い止めるべく、町の大人たちが総動員で修繕にあたったが、その際2名の行方不明者が出た。
の父親と母親だった。
あれから2年。
二人の遺体はまだ見つかっていない。
「レッド、どうして私は一人なのかな、ねぇ、レッド。」
「…。」
大雨の中、玄関に立って両親の行方が分からなくなったこと告げにきた町長の顔が蘇る。
家の近くの木に雷が落ちて、まるで映画のワンシーンのようだったことを覚えている。
そのときは町長の言っている意味がわからなくて、両親が居なくなったのも実感が沸かなかった。
けれども、次の日も、その次の日も、またその次の日も、1週間、2週間、1ヶ月経っても、両親は帰ってこなかった。
たまに家に遊びに来ていたレッドが頻繁と呼べるほど来るようになったのは、その頃からだろう。
米を2合炊くようになったのも、同時期だ。
幸い家は持ち家でローンも無く、親の貯蓄や保健、国からの支給で一人で生きていけないことはなかった。
世話好きなレッドの母親があれこれ面倒を見てくれたし、もう一人の幼馴染みの家族も、いろいろと協力してくれた。
記憶は次第に薄れていき、いつの間にか、随分と昔から一人で暮らしているような錯覚に囚われていた。
両親が何故居ないかは、気にも止めなかった。いや、無意識に考えないようにしていたのだろう。
無事に高校を卒業し、町内の小さな雑貨屋で細々と働いて生計を立てている今、一人暮らしに何の疑問も抱かなかった。
「私、最低だ…っ!お父さんとお母さんのこと、忘れてっ…ッ…っ…。」
だんだんと、呼吸が早くなっていく。
浅い息を断続的に吸い込むばかりで、吐き出せなくなっていく。
手足に痺れるような感覚が起こり、頭の奥がボーっとし始めた。
前にもこんなことがあったような気がするが、思い出せない。
「、落ち着いて。」
レッドの声が耳元で聞こえる。
けれども、それすらもだんだん遠のいていくように感じて、恐くなり、探るように手を伸ばす。
「やっ…、やだ…っハァっ、ッハッ、置いてかないで…っ!一人にッ、しない、で…っぁ…!」
「一人じゃない、オレが居るから!」
伸ばした手を掴んだのは、確かにレッドだったのだろう。
けれどもその頃には、の意識は遠く霞み、誰のものなのか判断がつかなかった。
ただ分かったのは、目の前に居るのが、赤い瞳の少年ということだけだった。
秒針が、まだ日が昇らない深夜の空気を静かに振動させながら、正確にリズムを刻んでいる。
それにシンクロするように、小さな吐息も空気を震わせていた。
決して広く無い自身のベッドの上で、は目覚めた。
いつもより近くに見える壁に少し驚き、寝相が悪かったのだろうかと首を捻る。
寝返りをうとうとして体を反転させようと動くと、背中に他人の背中が触れるのを感じた。
一体誰が同じベッドで寝ているというのだ。心当たりが無くて、思わず身を硬くする。
相手もどうやら今の動きで目が覚めたようだ。掛け布団を押しのけ、のそりと起き上がる。
「起きた?」
「あ、レッド…。」
黒髪に少し寝癖がついた幼馴染みが、豆電球のついた部屋の中で小さく息をついたのが分かった。
呆れや諦めのため息というより、安堵の吐息に近い。
もで、一緒に寝ているのがレッドでほっとする。
これが全く知らない大の男だったら、声も出さずに失神していただろう。
「しんどくないか?」
「え、どうして?」
「いや、失神してたから。」
「嘘!?」
「本当。」
言われてみれば、ご飯を食べ終わってからベッドに運ばれるまでの記憶が無い。
一体何が原因で失神したというのだ。そしてその間に何があったのか。
「私、なんで失神したの。」
「食べすぎで。」
「嘘!?」
「…。」
豆電球のオレンジ光の下で、レッドはニコリと笑ってみせる。
嘘なのは明らかだった。
だが、こうして黙ったまま笑うのは、『聞かないで欲しい』という意思表示だ。
それを知っている以上、問い詰めるわけにはいかない。
お互いにとって、それが暗黙のルールになっている。
煮え切らない気持ちだったが、無理に聞いてレッドを困らせる、あるいは怒らせるような事態に発展させたくない。
大人しく引き下がるのが吉だろう。そう考えて、余計なことを問いかけないように唇を引き結ぶ。
レッドは少しだけ申し訳無さそうに顔を翳らせたが、次の瞬間には笑顔になって、言った。
「じゃ、オレ帰るよ。」
「え。」
布団の中からいそいそと抜けだしたレッドは、机上に置いたキャップを被り、ダウンジャケットを羽織っての部屋を出る。
あまりにも後腐れの無いスマートな脱出に、は出後れて布団の中に取り残された。
はっと我に返って、すぐさま後を追いかけるが、先を行くレッドは一向に止まる気配を見せない。
「レッド、待って!」
「失神したんだから大人しく寝てなよ。」
「だって、その。」
「ん?」
玄関先でようやく立ち止まり振り向いたレッドに、呼び止めた張本人のは言葉を詰まらせた。
何のために、レッドを引きとめようとしているのか。
いつもだったら、気をつけての一言でも投げかけて大人しく見送る。
あるいはレッドを見送る前に寝てしまい、気が付けばベッドの中で朝を迎え、レッドは忽然と姿を消している。
これまで一度たりとも帰るのを引き止めたことなど無かったというのに。
「えっと、あー。えーっと。そのですね。」
「愛の告白でもしてくれるのか。」
「あああああ、あいのこくはくっ!?」
「冗談だよ。」
肩を小さく揺らして笑うレッドにからかわれたのだと気付き、むぅと頬を膨らます。
その仕草を見たレッドは一瞬だけ切なげに目を細めたが、見事にの瞬きの合間だったので、がその視線の意図に気づくことは無かった。
「じゃあお休み。」
「お休みなさい。…その、気をつけて。」
「ありがとう。も明日は無理しないようにな。」
レッドの暖かい手のひらがの頭を撫でる。
手のひらは静かに下に移動し、目じりの辺りを優しく数度撫でて、離れて行く。
かすかな温もりが離れるだけで、どうしようもなく、寒い気持ちに包まれた。
泣きそうな顔をしていたのだろう。
レッドは扉を閉める前に、安心させるような笑みを浮かべて呟いた。
「明日もまた来るよ。」
カチャン―――
扉が、閉まる。
一家が住むはずの一軒家で、再び一人きりになる。
時計の秒針の音が、次第に大きく、広く、家の中に木霊し始めた。
レッドが居てくれたときは、そんな音ちっとも気にならなかったのに。
広い家に一人だと、静寂に時計の秒針が響く音は大きすぎる。
針が時を刻むごとに、さっきまで与えてもらっていた温もりが抜け落ちて行くようだった。
どうしてこんなにも、寂しいというのだろう。理由は分からない。
部屋のベッドに再びもぐりこんで目を閉じても、静寂の中に聞こえる時の刻みがいつになく耳について睡眠への導入を邪魔した。
いつもは壁を向いて眠るのだが、少し位置を変えてみたら眠れるかもしれない、と体を反転させる。
ついさっきまレッドが寝ていた方を向いたとき、布団に自分以外の匂いが残っていることに気付いた。
それは時々寝そべる機会があるレッドのベッドからするにおいと同じで、他人であるのに最も身近に感じる人の残り香だった。
不思議なことに、その香りを認識した途端、安堵に瞼が重くなってくる。
朝日が昇る前の暗闇の中を小走りで自宅に向かう少年の姿が、瞼の裏側に浮かび上がると、とうとう頭の奥がボーっとしてくる。
睡眠する体制に入りはじめたようだ。
「レッド…。」
決してお互いの家の距離は遠くない。妄想の通りに走っていれば、既に家に着いているころだろう。
今更その名を呼んだところで、駆けつけてきてくれるはずが無いことくらい分かっている。
それでも、静寂と時の刻みを打ち破るには十分だった。
「 …。」
小さな呟きは、寝言か、はたまた夢の中の言葉だったのか。
誰にも聞き取れないような胸の内に秘めた言葉を最後に、は眠りについた。
その耳に秒針の音は、もう届いていない。
家を出た途端、むき出しの手と顔面に突き刺すような冷気が触れた。
一瞬にして意識が覚醒したような気持ちになる。
レッドは振り向くことなくの家を後にした。
振り向けば、家に帰る決意が鈍ってしまうことくらい分かっている。
夜空の下、通行人は全くと言っていいほど見当たらない。
今この時間に真白<まさら>町の町中を歩いているのは、レッド一人に違いなかった。
夜中に外を出歩くであろう若者達自体がこの真白<まさら>町には元より少ないし、町の中に夜遊べるような娯楽施設は一つも無い。
コンビニだって、隣町との境に一件あるくらいだ。
よほどの物好きか何かしらの理由が無い限り、こんな夜中に寒くて何も無い町中を望んで歩くなんてことしない。
だからこそ、人とすれ違うことを望まないレッドが堂々と出歩ける時間だった。
「…おじさん、おばさん、早く帰ってきてやってください。」
誰も居ないと分かっているから、立ち止まって星が見える空に向かって呟く。
の両親が行方不明になってから2年経った今でも、レッドは二人がどこかで生きていると信じている。
そしていつの日かふらりと戻ってきて、眠っているにお早うとただいまを言うのだ。
だから、朝日が昇る前には絶対帰ると決めている。
帰ってきてそうそう、育った娘とその幼馴染みが同じ屋根の下にいる姿を目撃してしまうような展開になっては申し訳が立たないから。
本当は四六時中でも側に居たいけど、その一点だけは守らなければならないの両親に対する礼儀でありケジメだと思っている。
とは言っても、がレッドの家に遊びに来たり泊まりに来る場合は制限を設けていないのだが。
そこはレッドの領域に自ら入ってきているため、の両親よりはレッドの母親の管轄下だ。
彼女がの来訪を許している以上、二人には目を瞑ってもらうしかない。
ふと、ジーンズのポケットに突っ込んだ携帯がマナーモードで振動する。
まさかからかと思って慌てて手に取ってみれば、母親からのメールだった。
時刻はまだ4時前だというのに。起きてレッドの帰りを待っていたのだろうか。
『冬のロンド見すぎてティッシュが切れたから、帰りにコンビニで買ってきて。』
冬のロンドというのは、韓国発祥のドラマだったはず。
そういえば昨晩、仕事で二日連休が取れたと喜んでいたような気がする。
その暇を費やすために、隣町のレンタルショップで借りこんできたのだろう。
レッドも重度の深夜族だが、母親も仕事が無い日は結構な無茶をするタイプだった。
寝ずに最終話まで見続けるつもりなのだろう。聞かなくても分かる。
「ハイハイ、買って帰りますよ。」
コンビニで働いている店長とは旧知の仲だ。
他の従業員にはさせられないからと、自ら深夜のシフトに入って働く優しさを持っている。
遥かに年上だが、不思議と話しやすく、また向こうも可愛がってくれるものだから、幼い頃から父親と話す機会がなかったレッドにとって、父親とまではいかずとも、それに近しい存在のように感じていた。
レッドが出歩いて買い物をする場合は、100%と言っていいほどこのコンビニにしか行かない。
母親もそのことは知っていて、なおかつ絶対家に戻ってくると思っているから、メールしてきたのだろう。
晩御飯に肉じゃがをリクエストしてしまったものだから、たとえもう目の前に我が家があったとしても断るわけにはいかない。
案外抜け目無いなと思う息子だったが、自分も十分それを受け継いでいることに、本人は気付いていなかった。
レッドは目の前の我が家に背を向け、町外れのコンビニに目的地を定めなおす。
時折町の人たちの間で「赤い目の幽霊」の噂が囁かれるのだが、当然昼間に出歩いてその噂を耳にすることが無いレッドは、自分が噂の張本人であることに気付く余地などない。
今夜もまた、「赤い目の幽霊」は真白<まさら>の町を闊歩する。
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執筆にとんでもなく時間がかかりました。
最中ホラー現象が起きたのでレッドさんの呪いだと思っておきます。
2009/12/10