写し身の鏡姫 ---04

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写し身の鏡姫 ---04

 滝のように窓を叩きつける雨の音が煩い。浅い眠りから目覚めて時計を見ると、時刻は朝の5時だった。早起きにも程がある。
 けれども学校の場所も何も知らないのだから、出発に余裕を持つのは当然のこと。
 このまま起きて早めに家を出ようと考えるの耳に、窓を打つ雨音にまぎれて玄関の戸を叩く音が聞こえた。
 先にも述べたが今は朝の5時。お客が来るには些か早すぎる時間帯だ。もしかしたら新聞屋だろうかと思うが、家の前にはきちんとポストが立っている。わざわざ戸を叩いて手渡しするほど彼らは暇ではないはず。
 もしかしたら今度こそ祖母が帰ってきたのかもしれない。寝間着のまま急いで玄関に走る。内側からかけた鍵を外して勢いよく戸をスライドさせると、そこにはよりも頭一つ分背が高い男性が立っていた。
 結うことなく流した長い黒髪は思わず嫉妬してしまうほど美しい艶を持ち、顔を飾るパーツである眼鏡の奥の瞳は優しげだ。上品に着こなしている藤と灰色の着物の右肩部分は、手にした番傘に入りきらなかったのか雨に濡れて色を変えていた。
 目が合うと彼は柔和な笑みを浮かべる。不覚にも見とれてしまうほど美しい。



「朝早くにすみません。私は大蛇卓。ババ様…ああ、宇賀谷さんに頼まれて貴女にお届けものを。」



 期待を裏切らない物腰の柔らかい声。けれども出てきたのは宇賀谷の名前。昨日いい目に会わなかったことを思い出し、無意識のうちに渋面になる。結局、菫は宇賀谷に連れ去られてから行方が知れぬままだ。昨日はあまりにも体がしんどくて探しに行く気力が起きず眠ってしまったのだが、今日こそは病院を探して菫に会いに行こうと思っていた。そんな中、朝一番でまた宇賀谷の名前が出てきたのだ。嫌な気持ちになるのは仕方が無い。たとえやって来たのが宇賀谷本人ではなく、飛び切りの美青年だったとしても。彼に罪は無いのだがタイミングが悪すぎた。
 青年はの心中を知らないまま、左手に持った大きな紙袋を差し出した。一応警戒しつつ受け取って紙袋の中をのぞくと、茜色の制服が綺麗にたたまれて入っている。今までが着ていたセーラー服とは異なったデザインで、なかなかお目にかかれない代物だ。まだ見ない紅陵高校の制服だ。直感的にそう思った。



「あの、何でコレを私に?」



 素性の分からない人から新しく通う学校の制服を渡されるのはなんだか不気味だ。宇賀谷の名前が出てきたから尚更のこと。
 警戒心丸出しであるのが一目で分かったのだろう。卓は困ったように苦笑して、その長くて白い指先で頬をかいた。ちょっとした仕草なのだがやけに優雅に見えるのは、彼がかもし出す雰囲気があまりにも上品なためだ。



「引っ越してきたばかりで制服が無いかもしれないから届けてあげて欲しいと頼まれたんですよ。来て早々お婆さんが入院されたとか。一人暮らしは寂しくないですか?」
「一人になったのは宇賀谷さん達がおばあちゃんを無理やり連れて行ったからです!」



 宇賀谷が連れて行かなければ、が今こうして彼が言うように一人になることも無かった。
 思わず声を荒げて怒りをぶつける。卓が直接関係していないことくらい分かっているのに。言った後で大人気ないことをしてしまったと後悔する。
 気まずいと思って恐る恐る顔色を窺うと、卓は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。今のは初耳だとでも言うように。



「無理やり、ですか?」
「そうですっ!おばあちゃんはボケてなんかいないのに…!無理やり連れて行っちゃったんです!」



 菫は入院を望んではいなかった。そしてが見る限りではボケてもいなかった。どう考えても宇賀谷達が自分達の都合上、無理やり連れて行ったとしか考えられない。
 一体どのような意図があってのことかは分からないが、少なくとも菫にとっては不利な展開だと思われる。
 卓も菫が無理やり宇賀谷に連れて行かれたとは思っていなかったのだろう。宇賀谷から聞かれた内容とから今聞かされた内容に生じた微妙な食い違いに戸惑っている。



「もしそれが本当だとしたら…でもなんでババ様は親友である菫さんを無理やり…。」
「分かりません。私はそれが知りたいんです。そしておばあちゃんが今どこにいるのかも。」
「そうですか…。」



 口元に手を当てて考え込む姿まで様になっている。いちいち見とれている場合でないのは分かっているのに、それでも見入ってしまうほどの魅力が卓にはある。やがて卓は一つの決案を出し、顔を上げてを見据えた。眼鏡の向こうの眼は真剣で、思わずドキッとしてしまう。



「菫さんがどこの病院に居るのか宇賀谷さんに尋ねてみましょう。全てはそれからです。」



 私情を挟まず冷静な判断を下してくれたことにほっと胸を撫で下ろすと、ふと肩に重みを感じる。暖かい羽織がかけられたのだ。それは今の今まで卓が身につけていた羽織で、彼の温もりが十分残っている。ふわりと漂うお香のような匂いが心地よい。



「玄関で長々とすみません。体が冷えたでしょう。」
「あ、いえ。こちらこそ外に居させてすみませんっ。良かったら中に、」



 身を引いて中に入るように促す。すると卓は少しばかり考えるようなそぶりをして、ふと笑みをこぼした。一体何なのだろう。眼鏡の奥の瞳を細めて微笑む姿はやけに色っぽい。



「その格好で大人の男性を家に入れるのは、少々無用心かと。」
「え?」



 その格好。は自分の服を見る。
 ダンボールの中の一番上にあった少し大きめの白いTシャツをパジャマ代わりに着ている。ズボンは出すのが面倒だったので履いていない。
 幸い足の付け根のちょっと下まで隠れているが、それでも下半身はほとんど露出している。この姿でずっと卓と話していたのだ。恥ずかしい。慌てて体を隠すように羽織の前を閉じる。



「おおお、お見苦しいものをお見せしてすみませんっ!」
「いえいえ、決して見苦しくなどは無いのですが、少々刺激が強い姿なので困ってしまいました。」



 ちっとも困っていない顔で言う。これが大人の男性の余裕というものなのか。周りの男子でここまで落ち着いている人は居なかったから、余裕綽々である卓が魅力的に思える。さぞかし女性にもてるだろう。
 とにかく、と、卓は渡した紙袋を指差した。



「菫さんがどこに居るかは私が聞くので、貴女は学校に行ってください。もうじき迎えが来ると思いますので。」
「迎え?」
「貴女は2年生でしたよね。一つ下の男の子です。今日一日、彼がこの村を案内する手はずになっています。」
「それも宇賀谷さんの言いつけですか。」
「そうですね。」



 やけに面倒見がいい。それが逆に怪しいのだが、もしかしたら純粋にを気遣ってのことなのかもしれない。いろいろと気にかけてくれる宇賀谷を少しくらいは信用してみようかと思っていると、ふと優しい眼差しが注がれ続けていることに気づいた。
 見れば、卓がニコニコ笑ってのことを見つめている。何か楽しいことでもあるのだろうか。



「えっと、何か付いてますか?」
「ああ、気に障ったのならすみません。まさかこんなに大きくなっているとは思わなくて。」



 眼鏡の奥の瞳が昔を懐かしむように細められる。今の口ぶりだと卓はの過去を知っているようだ。は10年も前になるがこの村に居たことがある。卓がこの村に当時住んでいたのなら、を知っていてもおかしくは無い。
 けれどもの記憶では、卓と重なる人物が浮かんでこなかった。村に居たあの頃の記憶はやけに曖昧で、実のところほとんど覚えていない。
 どんな反応をすればいいか困惑していると、卓はが全てを忘れていることに気づいたのか、少し寂しそうな顔をした。



「もう…10年も前ですからね。」
「ごめんなさい。私、どうしても思い出せなくて…。」
「いえ、気にしないでください。当時の私は15才でした。今はすっかり年を重ねてしまって…あの頃の面影は見る影もありません。分からなくても当然ですよ。」



 だからそんな風に申し訳なさそうな顔をしないでください。と、うつむくの頬に長い指先が優しく触れる。少し冷たい。卓は雨の中やってきてくれたのだ。道中、そしてこうやって話している間にも体が冷えてしまったのだろう。羽織をに渡してしまったせいで、余計に冷えたはずだ。



「あの、これ。」



 羽織を返そうと思って合わせた前を開く。恥ずかしいけれども、いつまでも卓から奪ったままではいけない。けれども卓は遮るように肩をそっと抑える。構わないとでも言うように首を振って、一歩後ろに下がった。



「幾ら私が20代後半でも、目の前であの姿になられると歯止めが利かなくなってしまいます。」
「えっ?」



 歯止めが利かなくなるというのは、どういうことなのか。
 真意を探るように窺い見る。けれども卓は相変わらず柔和な笑みを浮かべたままだ。宇賀谷とは違った意味で何かを覆い隠すような笑みである。
 その眼差しに見つめられると不思議と体温が上がっていくような気がした。羽織の下、更にはTシャツの下まで見透かされているような気がして、途端に恥ずかしくなる。
 無意識のうちに縮こまる体。卓はそんなの頭をそっと撫でた。



「犬戒君はとっても初心ですから、その格好を見せると顔を真っ赤にして卒倒してしまいますよ。」
「は、はぁ。」
「さぁ、そろそろ準備をしないと。私はおいとましますね。」
「あ、はいっ。ありがとうございました。」



 紅の番傘がバッと開く。僅かに雨水を散らして開いたそれを差し、卓はゆっくり去っていく。
 正面から見ると中性的な美しさに溢れている卓だが、その背中は広く、頼りがいがあるように見える。どれだけ美しくても男性であることに変わりは無い。
 ふと気づく。番傘は卓の肩幅よりも更に大きい。だから濡れるはずが無いのに、来たばかりの卓は片方の肩が濡れていた。かけてもらった羽織の右肩に触れてみても、やっぱり湿っている。
 おそらく卓はの制服を濡らさないよう、自分ではなく紙袋に焦点を当てて傘を差してきたのだ。だから片方の肩が濡れてしまった。 恐ろしいほど紳士的な人だ。さりげない心遣いに、申し訳ないと思いつつも嬉しくなる。



「大蛇、卓さんかぁ。」



 気品に溢た紳士的な和服男性。時々視線の奥の意図が読めないけれども、宇賀谷よりは信じられる存在だと思った。
 雨に背を向け、家の中に入る。途端に気温が下がった気がした。本来なら外のほうが気温は低いはずなのに。以前から一人で暮らしがほとんどだったが、暮らしていた場所の規模が違いすぎる。
 この広い家に自分しか居ないのがやけに寂しく思えて、肩にかけてもらった羽織をぎゅっと握り締める。まだほのかに残る温もりは、あの人の優しさが詰まっているようだった。
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