写し身の鏡姫 ---03
写し身の鏡姫 ---03
涙が頬を伝って零れ落ちる。
悲しくて、悔しくて…でも何がそんな気持ちにさせているのかよく分からない。
気が付けば目の前には赤い液体の中に横たわった何かがあって、それが何であるかを認識するまで少しの時間が必要だった。
無造作に散らばる、長い黒髪。赤い液体が白い肌を一層際立たせている。
それは、人だ。
人だと認識した途端、頭の中が真っ白くなる。
見たくないという思いが意識を遠ざけようとする。
『…。』
それには既に生命が無いと分かっているのに。
ふと、名前を呼ばれた気がした。
「っ!!!!!!!!!!」
奈落に突き落とされたような気がして、体がビクリと跳ねる。
背中にはイ草の香りがほのかに漂う畳があって、白昼夢を見ていたのだと理解した。
ついさっき玄関を開けたはずなのに、何故こうして畳の上で寝ているのだろう。
誰かに連れ去られたのかと思ったが、部屋の内装はかすかに見覚えある。が7歳になるまで生活していた祖母の家の一室だ。
玄関で貧血でも起こして倒れ、気づいた誰かが運んでくれたのかもしれない。
といってもこの家には祖母一人しかいないはずだ。
入院を目前にしている老婆が成体に近い娘を運べるとは考えにくい。
謎は深まるばかりで、考えても答えは出てこなかった。
「それにしても、さっきのは何だったの…。」
目覚めた今でも、搾り出すようにささやかれた自分の名前を呼ぶ声をはっきりと覚えている。
知らないはずなのに懐かしいと思ってしまうのは何でだろう。
考えても分からない。
窓から差し込む夕日は怖いほど美しい緋色。
あの血溜まりを思い出してしまって、全身に寒気が走ったときだった。
閉じた障子が音もなく開き、薄暗い廊下からやせ細った老婆が入ってくる。
すっかり色あせた腰近くまである白髪を一本に括った彼女は、の祖母―菫―だ。
最後に見たのは10年も前になる。けれどもあの頃から劇的な変化は見られない。少し小さくなったように感じるが、背筋はシャンとしていて、藤色の着物がよく似合っている。
電話では起き上がることも困難だと聞いたが、今見た限りではそこまで容態は悪そうにない。
「おばあちゃん!!!」
嬉しくなって駆け寄ろうとするを、菫は静かに制した。
まるで何かから隠れるように後ろ手でそっと障子閉めると、厳しい顔でを見据える。
「、悪いことは言いません。今すぐ帰りなさい。」
電話で聞いた、今にも倒れてしまいそうなしゃがれ声とは全然違う、ハリのある声でピシャリと言われる。
まるで別人みたいだ。
を呼んだのは菫のはずなのに、その菫に会った途端「帰れ」と言われるのはどういうことなのか。
「なんで?呼んだのはおばあちゃんでしょ?」
「違います。あなたを呼んだのは私ではなく、宇賀谷の…、っ!」
菫は誰かの名前をつむぐ途中で、突然むせながら体を前に折った。
苦しげに胸を押さえ、倒れないよう必死にの肩を掴む。
「おばあちゃん!?大丈夫っ!?」
「ここはっ…見張られています。宇賀谷の者が来る前に、すぐ村から出なさいっ…!」
ふと、玄関の戸が開く音が聞こえる。
静かな足音が二つ、たちが居る部屋に向かってきた。
菫は顔を青ざめさせて、を押入れの前にやる。を押入れに隠そうと思ってのことだったが、願いも虚しく、が隠れる前に襖が開く。
菫と同じように色あせてしまった髪を一つに束ねた老婆と、と大して年の変わらなさそうな少女が、襖の向こう側に立っていた。
二人を見た途端、の背筋をひやりとした汗が流れ落ちる。
出会った一瞬で、「この二人は何かが危険」だと本能が訴えた。
「あの、どちら様ですか?」
菫を支えて、万が一の時は抵抗できるように、間合いを取る。
問いかけに老婆は優しげな笑みを浮かべた。顔は確かに笑っている。けれども心はどこか冷えていて、まるで能面みたいな笑みだ―――そう思った。
「私は宇賀谷静紀。菫さんとは小さい頃からの友達なの。貴女はちゃんでしょう?昔何度かあったことがあるのだけど、もう覚えていないかしら?」
「宇賀谷…さん?」
さっき菫が呟いていた名前だ。記憶を探っても宇賀谷という人物は出てこない。目の前に居る宇賀谷静紀と名乗る老婆もはじめて見る。
「宇賀谷さん、あなたが私を呼んだんですか?おばあちゃんのフリをして。」
菫の話はそういう内容だった。宇賀谷は一瞬だけ目を眇めたが、次の瞬間にはまたあの能面のような笑みをに向ける。
「ちゃんに聞かせるのは心苦しいのだけど…最近の菫さんはボケがかなり進行しているの。自分で呼んだことを忘れて混乱しているのでしょう。でも大丈夫。今日から菫さんはその手の病院に入院するから貴女は心配しなくていいのよ。」
「にゅう、いん…?」
「さぁ菫さん、早く行きましょう。美鶴、手伝ってあげて。」
宇賀谷の傍らに控えていた少女が名前を呼ばれてすっと前に出た。
驚くほど儚げな美少女だ。けれどもその瞳は何処かうつろで、何も感じていない人形のように見えた。
美しすぎてそのように感じてしまうのだろうか。思わず見とれている間に、少女はの腕から菫を引き寄せ、支えた。
菫はやけにぐったりとしていた。まるで糸が切れてしまった操り人形のように。
「さあ、外で車が待っているからいきましょう。」
宇賀谷はそう言って部屋を出て行こうとした。
いきなり現れて菫を何処かに連れて行こうとしている。
宇賀谷は菫を友達だと言ったが菫は宇賀谷に気をつけろといった。
ついさっきまで驚くほど機敏に動いていたというのに、あれでボケが進行しているとは信じられない。
信じるとしたら菫の言葉だ。宇賀谷は何かが怪しい。
「待ってください!私も病院に連れて行ってください!!!」
「ちゃんは今日着いたばかりで疲れているでしょう?菫さんは私が必ず病院に連れて行きますから、安心して休んでいいのよ。」
「でも、私はおばあちゃんの面倒を見るためにこの村に来たんです。これから入院する場所についていくのは当然ですよね。」
「大丈夫、心配しないで。明日また連絡するわ。」
一体何が大丈夫だというのだ。宇賀谷がを連れて行きたくないと思っているのは明白だった。
やはり何かおかしい。付いていかなければ菫が大変な目にあうかもしれない。
意地でも食い下がってやろうと思うの前に、あの少女が再び現れる。
いつの間にか菫は一人で廊下を歩き、玄関に向かっていた。
追いかけようとしても少女が通路をふさいでいるせいで追いかけられない。
「今はお休みください。」
か細い声が、凛と周囲に響き渡る。
うつろな瞳に見つめられ、途端に意識が揺らいだ。
「なっ…に…?」
嫌な耳鳴りがしてバランスが取れない。
ふらつく足。肩が壁に当たった。そのまま立っていられなくて、ずるずるとしゃがみこむ。
最後に見たのは、遠ざかる少女と二人の老婆の背中だった。
が次に目覚めた時には既に日が暮れて、明かりのついていない廊下はかなり暗かった。
手探りで電気のスイッチを押すと、オレンジ色の電光があたりを照らし出す。
誰も居ない廊下はやけに静かで落ち着かなかった。
壁に背をつけたまま廊下で寝ていたせいで体が痛い。
「私、なんでこんなところで…。」
鈍痛が走る頭を抱えて気を失う前のことをおもいだす。
菫が宇賀谷と名乗る老婆に連れていかれた。追いかけようとしたのに、美鶴という少女が何かを言った途端体がおかしくなってこの様だ。
菫の面倒を見るはずだったのに、自分は何も出来なかった。
「どうしたらいいの。」
この村に頼れる人は誰もいない。
7歳まで居たといっても、は滅多にこの家の外に出なかった。
菫がを外に出すことを懸念していたからだ。
外界との接触を極端に絶って育ってしまったため、知り合いと呼べる人は誰も思い当たらない。
父に電話をかけたとしても、海外に居る父がどうにかできるとは思わなかった。
記憶に残っている限りの病院という病院を捜し歩いてみようか。
けれども浮かんでくるのは田舎風情溢れる個人経営の小さい診療所だけ。あそこに入院できるほどの設備は無かったはずだ。
もう10年も前の記憶だから、今とはだいぶ変わって大きな病院になっているのかもしれないが。
10年居なかったにとって、季封村は未知の村に変わっていた。
自分ひとりではどうにも出来ない気がして、途方にくれる。
そのとき、玄関から大きな音が家中に響いた。
ギョッとして玄関を見る。
擦りガラス越しでよく見えないが、人が戸を叩いていた。
「は、はいっ、今出ます。」
もしかしたら菫が自力で帰ってきたのかもしれない。
期待を胸に戸を開くと、そこには闇夜でもくっきりと浮かび上がる白髪の青年が立っていた。
オレンジ色の電光に照らされて、切れ長の細い金色の瞳が鋭く輝く。
思わず言葉を失ってしまうほど見目麗しい青年だ。は戸を開いたまま、絶句してその場に立ち尽くす。
「これを。」
すい、と。
白くて長い指に提げた学生鞄が押し付けられる。
それはの学生鞄だった。
朝、鴉取家の庭に忘れたままだったのだ。
は今になって学生鞄が無かったことに気づいた。
中には財布や保険証が入っているから、届けてもらわなかったら一大事になっていただろう。
「あ、ありがとうございますっ!」
「じゃあ…。」
青年は渡した途端、もう用はないと言わんばかりに背を向けて歩き始める。
は暫くの間、立ち去る姿にすら見入っていたが、暗闇に彼の姿が完全に消えてからろくなお礼をしていないことに気が付いた。
昔から落し物は1割を拾い主に還元するというのがお決まりだ。
追いかけようと思ったが、既に青年の姿は見当たらない。
青年が着ていた服はが今日行くはずだった紅陵学院のものだったが、登校しなかったがそれを知るのは翌日のことになる。
家から少し離れた柳の木の下に、鴉取真弘は立っていた。
つい今しがた狐邑祐一が家の玄関でと話す様をこっそり窺っていたのだ。
祐一は自分より頭一つ分小さい真弘を見下ろして、小さく息を吐く。
「渡してきた。」
「悪いな。」
「自分で行かなくてよかったのか。」
「…俺はあの家に近づけない。」
近づけないんじゃない。近づいてはいけないのだ。
思い出すのは過去の惨劇と後悔。
無意識のうちに握り締めていた拳を解く。
手のひらは汗ばんでいた。緊張したのだ。
「家の中には彼女しかいないようだった。の婆さんの気配はしなかった。」
「婆さんが居ない?倒れたのか?」
「分からない。」
宇賀谷と美鶴が菫をつれて出て行ったことを、真弘と祐一は知らない。
二人はもう一度家を見て、黙り込んだ。
決して小さくない家だ。家は季封村の中でもかなりの土地を持っている。なぜなら玉依の血筋と同等の歴史を持っているから。
明かりがついているのは玄関くらいで、ほかの部屋の電気はほとんど消えているのが垣根越しでも分かる。
は今、広すぎる屋敷に一人ぼっちだ。
「あいつ、何で今になって戻ってきた…?よりにもよって今のこのタイミングで。」
真弘の小さい呟きを、初秋の冷えた夜風がさらってゆく。
返事の無い疑問は小さなつむじ風に乗って消えた。