写し身の鏡姫 ---02
写し身の鏡姫 ---02
心地よい風が体を包んでいる。
それはまるで赤ちゃんを包む柔らかい布のようで、は無意識に風の布を引きよせようと手を伸ばす。
当然風は実態が無いのでつかめなかったが、代わりに少しだけ冷たくて硬い布が手に触れた。
「…ん…?」
うっすらと目を開く。ぼんやりとにじんだ視界に鮮烈な緑が映りこんだ。それが瞳だと気づくまで、およそ10秒はかかっただろう。
は誰かの腕に抱かれていた。無意識に手繰り寄せていたのは、誰かが着ている服だ。
急に夢の世界から現実に引きずり戻される。
慌てて手を放すと、体を支えていた誰かも驚いたように手を放した。
二人が同時に放したものだから、は体の支えを失い、グラリと傾いて硬い地面に背中から倒れこむ。
運が悪いことに、背骨のあたりにちょうど固い石があって、当たった部位が酷く痛んだ。
「いたっ…。」
「わ、悪いっ!大丈夫か!?」
誰かがそっと手を差し伸べてくれる。握ると、思いがけない強い力で引っ張り起こされた。
小さい手だが、その力強さは確かに男子のもの。
ちゃんと立ち上がると、意外と近いところに目線があった。要するに、お互いの身長があまり変わらないのだ。
日光の下に照らされた紺色の髪は濡れた様に艶めいて、一本一本が細い。
同じくらいの目線にある2つの目はパッチリと大きくて、けれども少しだけ鋭い。
色素が薄いのだろうか。瞳の色は綺麗な翡翠だ。思わず魅入っていると、あからさまな咳払いが一つ聞こえる。
目の前の少年がしたのだ。
じろじろ見られて気まずかったのだろう。
「あ、ごめんねっ。」
さすがに初対面の人を断りなく凝視するのは失礼だ。自分が同じことをされてもいい気はしない。
頭を下げると、少年は気を取り直したのかやんちゃ坊主のような笑みを浮かべた。そして体格に似合わないくらい精一杯胸を張って、上機嫌に言う。
「よしよしっ、分かればいい!にしてもお前、何であんな所から降ってきたんだ?」
あんなところ、とはどんなところか。
少年が指差すほうを見ると、切り立った高い崖が聳え立っている。
確か自分はあの崖を落ちたはずなのだが。
一通り体を見ても、特に怪我のようなものは無い。強いて言えば先ほど石に打ちつけた背中が少し痛むくらいだ。
けれども普通に立っていられるし、足もちゃんと地面についている。
ここが死後の世界というわけでもなさそうだ。
「もしかして、キミが受け止めてくれたの?」
たいして身長の変わらない少年が、あの高さから落下した人間を支えきれるとは思えない。
けれども少年以外に助けてくれたような人物は見当たらないから、少年が受け止めてくれたか、あるいは奇跡が起きたとしか考えられなかった。
の問いに、少年は微妙に目を背けながら曖昧な相槌を打つ。
「まぁ、助けたのは俺だな。」
やはり少年が受け止めてくれたようだ。
さっき引き起こしてくれたときもそうだが、小さい体躯に似合わず豪腕の持ち主なのかもしれない。
華奢に見えて脱いだらすごいとか?
目の前の少年が上半身ムキムキな姿を一瞬想像してしまい、首を振った。
顔とギャップが激しすぎる。似合わない。
「おーい、何自分の世界に浸ってんだよ。」
「あ、ごめんね。」
「俺は落ちてきた理由聞いてんだって。」
「えっと、森の中で迷っちゃって。出口だと思って一歩を踏み出したら崖になってて、それで落ちちゃった。」
「落ちちゃった、って。お前なぁ…。」
そもそもなんでこんな朝っぱらから森で迷うんだよ。
言われて、迷った理由を思い出す。
最初は祖母の家に向かうためだったのだ、だけど途中から学校のことが気になりだして…。
はっとして時計を見る。時刻は8時30分だ。
元いた高校ならHRはあと10分で開始する。
学校の場所すら知らないのに、あと10分でたどり着けるとは到底思えない。
「どどどどど、どうしようっ!!!!遅刻しちゃうっ!!!」
「…あー、もうそんな時間か。」
最後に時計を見たときはまだ7時過ぎだったはず。
崖から落ちた時もそれくらいだと考えたら、1時間以上気絶していたことになる。
慌てて駆け出そうとするの腕を少年がすかさず捕らえた。
前のめりになって再びこけそうになったので、非難の意をこめて見返すと、少年はあきれた目でを頭の上からつま先まで見る。
「お前、その格好で行くのか?」
「え?」
スカートと半そでのブラウスは所々切れてぼろぼろ。ローファーにはびっしりと土がこびりついている。きっと今の自分は野生児に見えてしまうのだろうなと、頭の隅っこで他人事のように思う。
さすがにこの姿で転校初日のクラスに入りたいとは思わない。
「一回帰って身なり整えたほうがいいと思うぜ。」
「そ、そうだね。一回戻って…。」
そこで言葉は途切れた。
戻ろうにも、現在地が何処かさっぱり分からない。
そもそも戻るのではなく、行かなければならないのだ。
なかなか動こうとしないに少年は不審な目を向ける。
「どうした?」
「…えっと…。」
「はっきり言えよ。」
「道が分かりません。」
「………は?」
何も事情を知らない少年にしてみれば、の発言は突飛なものに聞こえたのだろう。
もしかして落下の衝撃で記憶を失ってしまったのか。
面倒ごとに出会ってしまったと頭を抱える少年に向けて、は現時点で唯一分かっている手がかりを口にした。
「っていうお婆さんが住んでいる家、知らない?」
今は亡き母の旧姓と父親の苗字が偶然一緒だったため、母の祖母の苗字もと同じだ。
地元住人である少年なら家のある場所が分かるかもしれないと思っての発言だったが、少年は途端に青ざめる。
もともと大きい瞳がコレでもかというくらいカッと開いて、瞳孔が酷く不安定に揺れていた。
何かいけないことを言ってしまったのか。
不安になって顔を覗き込むと、まるで現実から逃れるように目を背けられる。
「お前、の婆さんの…何だよ。」
「孫だけど。」
今度こそ少年は衝撃を受けたように固まった。
さっきまであれだけ尊大な態度だったのに、今は片鱗も見られない。
気のせいか、震えているように感じた。
「あの、大丈夫?」
何処か体調でも悪いのか。それともの名がそこまで嫌なのか。
心配のあまり頬に伸ばした手は、届く前に叩き落とされる。素直に痛かった。
傷つきたいのはこっちなのに、少年のほうが悲壮感溢れる顔つきだ。自分がやってしまった事を信じられないとでも言うように、叩き落としてしまったの手を呆然と見つめている。
昔この村にいたときは、村の人たちはにも祖母にも普通に接してくれていた。
だから嫌われ者の血筋だというわけではないと思う。
けれども自分がいない間に事態が変わったのかもしれない。
「その、ごめんね。助けてくれてありがと、私行くから。」
は少年から離れて歩き出す。一刻も早くこの場から離れなければならないと感じた。少年は追いかけてこない。
どうやら現在地は民家の裏庭のようだ。少年の家の裏庭だったのかもしれない。
砂利が敷き詰められた地面を不安定な足取りで踏んで歩いていると、外に出られる小さい門があったので、静かに開けて表の通路に出た。
その通りはなんとなく見覚えがあるような気がして、少しだけほっとする。
この道を通っていけば、今度こそ祖母の家にたどり着けそうだ。
「…『鴉取』?なんて読むんだろ。」
今出てきた家の正門にかかっている表札には、複雑な書体でそう書かれていた。
読めない苗字を掲げた家の前を通過して歩くこと数分。
山に取り込まれるようにして建っている古びた屋敷が目に入る。
祖母の家だ。やっとたどり着いた。
時計の針は8時50分。これから服を着替えたり何なりしていたら、確実に朝は遅刻だ。
そもそも学校の場所もよく分からないのだから。
「ま、学校は明日行けばいいか。」
今日一日は荷物を出したり部屋のセッティングにあてよう。本当は週末にする予定だったが、初めての学校に遅刻して行くくらいなら、休んでしまった方がいいと考える。
サボりの発言をとがめるものは誰も居ない。
は家の引き戸に手をかける。無用心なことに鍵はかかっていない。
あけた途端、木造建築独特の木々の香りが漂ってくる。
懐かしさに思わず口を付いて出たのは「ただいま」だった。
この時のはまだ何も知らなかった。
無常にも、因果の輪廻が重ねてはならない二つの宿命を今ひとたび一つにしようとたくらんでいることに。
自分に課せられた運命と役割。
全てを知るのは、戻ることが出来なくなってから。