写し身の鏡姫 ---01

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写し身の鏡姫 ---01

 少しだけ肌寒い朝の空気を胸いっぱいに吸い込めば、不思議と背筋がシャンと伸びる。
 視界を染める紅葉はまだ全てが紅に染まっているわけではなく、所々が生き生きとした緑色。
 暦的には秋と呼べる今日だが、周囲の景色は夏の面影を少しだけ残していた。
 懐かしい…と、はあたりをぐるりと見回す。古びたバス停と村に続く入り口。この景色はにとって初めてではない。
 幼い頃、この景色の中で暮らしていたことがあるからだ。
 


 自然が息づく木々のざわめき、濃い空気、視界に捉えることができない動物たち、あるいは<動物じゃない何か>の気配。
 街とは一風変わった空気の流れる季封村に再び訪れることになったのは、この村で暮らす母方の祖母の容態が急変したからだった。
 もともとひ弱な体質で床に伏せりがちだった祖母なのだが、つい先日の知らせで入院をしなければならないほど体調が優れないことが分かった。
 いつも世界各地を飛び回っている外商業の父親は、家計を支える大黒柱である以上日本に戻って来れない。
 が生まれてすぐのこと、病にかかって命を無くした母親に変わって面倒を見てくれたのが祖母だ。
 いわば育ての親であり、血のつながりもある。
 ほうっておける存在ではないので、父親と電話で相談して、この村で祖母の面倒を見て暮らすことにした。
 生活に必要なものはほとんど祖母の家にそろっているとのことだが、とりあえず服や洗面用具といった日用品だけは先に宅配便で送ってある。



 朝一のバスで村に着いたのはいいが、何しろ久々にやって来たので村までの道がよく分からなかった。
 というのも、バスの停留所があるここはあくあまで村の入り口。実際に村と呼べる場所に出るまで、まだかなり長い距離を歩かなければならない。
 祖母の家に預けられていたのは7歳まで。それから10年間は一度も足を運んでいない。
 入院をしなければならないほどの容態である祖母が迎えに来るとは考えられないから、現地までは自力で行かなければならない。
 こうなるならせめて地図でも買っておけばよかったと、今更ながらに後悔する。
 といっても、極度の方向音痴の上に地図が読めないので、買っていても同じ結果だっただろうが。
 そもそもこの村のことを詳しく書いた地図が市販されているかも怪しい。
 季封村は世俗から隔離され、身を隠すようにひっそりと存在している古き歴史のある村だ。
 外界のものを寄せ付けない慣習があり、観光名所なんてものも存在しない。
 季封村の地図があるとすれば、村の中でしか販売していないだろう。



「とにかく、適当に行ってみようか。」



 はどこの高校でも見かけるスクールバッグを肩にかけ、ローファーでろくに舗装されていないゴツゴツの道を行く。
 暫くの間は一本道が続くが、途中で分岐点に突き当たった。かすかな記憶だと、一方は村に続いており、もう一方は森に続いていたはずだ。
 古びれた看板が一応かかってはいるが、雨風によって風化してしまい、案内を読むことは出来ない。
 仮に森に出てしまっても、一直線に抜けることが出来れば村への近道だったような気がする。
 運に任せて進むと、やがて周囲の空気は一層濃密になり、緑がより深みを増していく。
 どうやら森のほうに進んでしまったようだ。
 まっすぐ進めば問題ないことは分かっていたので、道なき道を自分が思うまっすぐの方角に進む。
 人間の手なんてろくに入っていないから歩きにくいことこの上ない。少しだけ湿った黒い土がローファーを汚すのが気がかりだが、今更引き返すのも面倒だと、あきらめる。
 祖母の家についてから拭けばいい。



「にしても、もうすぐ着いてもいいはずなんだけどなぁ。」



 思い始めて20分。けれども森が終わる気配は無い。
 進めば進むほど深みを増して暗くなっていく。まだ朝だというのに、雨が降った夕方のように薄暗い。
 多い茂る大樹の葉が重なり合い、太陽の日差しを阻んでいるのが原因だ。



「やばっ、このまま着かなかったら学校に遅れる!」



 今日から季封村にある紅陵学院という高校に通うことになっている。
 幾ら転校生だからといっても、初日から遅刻はさすがにまずい。気が急いて無意識のうちに足が速くなるの目に、数メートル先の葉の隙間から差し込む白い光が見えた。
 出口だ。



「やったっ!出られるっ!!!」



 長く歩き続けて疲れた足を叱咤し、駆ける。初日から遅刻で廊下に立たされるなんて無様な目にはあわないで済みそうだ。
 葉を押し分けて一歩を踏み出した瞬間、目の前を真っ白い光が覆い尽くした。
 次の瞬間には青い空と太陽が見えて、大地を捉えたと思った足が、スカッと宙を踏む。
 森の終わりは大地の終わりでもあった。出口と思っていた場所は崖になっていたのだ。



「あっ、わ、ちょ、まっ…ああああああああーーーーーっ!!!!!!」



 泳ぐように手を動かして必死に戻ろうとしても、翼を持たないの体は重力に従って前のめりに落ちていく。
 急激な浮遊感が肝を震わし、嫌な汗が噴出した。
 地面まで目測20メートル近くある。
 落ちるのは一瞬の出来事だったのだろう。けれども過去の出来事が、その僅かな合間にフラッシュバックする。



 むせ返るような赤の中に浮かぶ、黒い髪。
 顔の見えない大人たちの囁き。
 まだ幼さの残る翡翠の相貌が映す、後悔と絶望。



 思い出される一つ一つが、どういうわけかの知らない出来事ばかり。
 これは一体誰の記憶なのか。



 目の前に迫る地面に目を閉じる暇もなく、膨大な<誰か>の記憶が脳内で膨らみ、視界を彩る。
 遠くなりかけた意識に追い討ちをかけるように、言葉が聞こえた。



『すまない。』と。



 胸を押しつぶしてしまうかのような、厳格にして苦しみを孕んだ謝罪の言葉。
 訳も分からぬまま、切なさが胸を締め付ける。
 何故そんなにも悲しそうに謝るのか。



 硬い地面にぶつかる寸前、柔らかい風が身を包んだ気がした。
 意識はそこで途切れる。後のことは、よく分からない。
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