あなあは私のお薬
あなあは私のお薬
頭蓋骨を割るような衝撃が無機質な音とともに幼い少年の頭を殴打した。崩れるように倒れる少年の額からは、命の源とも呼べる液体が伝い落ち、木で出来た床を濡らす。古い映画のようなモノクロの1シーンがレッドの目の前に映し出されていた。もしこれに色がついていたならば、床を伝いレッドの足元まで流れついた液体は、見事なまでの赤色だったことだろう。モノクロの世界で唯一彩色されたレッドは突然目の前で起こった惨状になす術もなく立ちつくす。倒れた幼い少年の正面には体躯の大きな少年が立ち、ガクガクと足を震わせながら木と鉄で出来た椅子を手にしていた。ふと、完全に昏倒しただろうと思っていた床上の少年の手がピクリとうごいた。血だまりの中に両手をついてずるりと起き上がり、今しがた自分を殴った少年を見上げる。椅子を持った少年は酷く恐怖した顔で口を開き、叫んだ。
『バケモノ!』
突然の罵倒に跳ね起きたレッドは、見上げた天井にゴーストのような染みを見つけてここが自分の部屋のベッドの上であることに気付く。寝汗は酷く、シーツはレッドが今しがた寝ていた部分だけが水分を含み色を変えていた。きっと隣家の幼馴染みがこれを見たならば、その年になってお漏らしかなどと皮肉を言って笑ったに違いない。レッドは寝ているうちに酷く荒くなっていた呼吸に気付き、口元を手で押さえ込んだ。あまり大きな音をたててしまえば、壁側でレッドに背を向けて眠るを起こしてしまう。幸いはレッドが起きたことに気付かないまま、背を向けてその体をほとんど聞こえない寝息のリズムに揺らしていた。よかった…、とレッドは安堵の息を吐くために口を押さえていた手をはがし、掛け布団を全部にかけてやった。
滑るようにベッドから抜け出すと、一人分の体重を失ったベッドは小さな軋みを立てながら底板を浮かせる。今度こそ起こしてしまったかとひやりとするが、は依然壁を向いて起きるそぶりを見せない。普段レッドがベッドから抜け出せば大抵すぐに目を覚まし、壁を向いた体をひっくり返して「どうしたの。」と目をこすりながら問いかけてくるのに、珍しい。そういえば寝る前に頭が痛いというのために、母親に頼んでファファリン(この世界における有名な頭痛薬のこと、薬局などで一般人も入手できる)を出してもらいそれを飲ませた覚えがある。パソコンデスクの上に置いた電子時計は、二人がベッドに入ってまだ1時間しか経っていない。薬の催眠誘導の効果が抜群に働いている頃だ。が目を覚まさないのはそのためだろう。
吹き出した汗は身につけた黒のTシャツを濡らして肌にくっつかせていた。なんとも着心地が悪い。レッドはクロゼットを出来うる限り音をたてないように慎重に開き、中から替えのTシャツを取り出し着替える。さすがに室内だといっても今は冬だ。寝るときは暖房をつけないこの部屋ではTシャツ一枚だけだとすぐに体が冷えてくる。寒さから逃れるために再びベッドに潜るが、寝ながらにして自分が流した汗はしっかりシーツを濡らしており、冷たかった。同じベッドに眠るに寄り添えばその体温が若干伝わって暖かいが、そんなことをすればはレッドの一瞬にして冷えた体の冷たさに驚いて、さすがに薬の効果があったとしても起きる。いくら「明日休みだから今日こそはレッドを負かすまで絶対寝ないんだから」とDS片手にやって来たとはいえ(結局のところそれはの勝手な言い分であり、あっさり負けた彼女はレッドの1人1日1戦ルールによって再戦を許されず、おまけに頭が痛いなどと口走ってしまったためすぐに布団に押し込まれたため下手をしたら普段より早く寝た)、一度眠ったを起こすのはしのびない。暖かくなるまで暫くの我慢だと言い聞かせてに背を向け布団に入り、眠ってしまえば寒いことも分からないだろうと目を閉じてみるものの、睡魔はいっこう訪れない。自分が起きていては眠りを妨げると思って一緒にベッドに入った1時間前は思いの他すぐに眠ることができたのに。
目を閉じても闇の中にさっき見た夢の光景を思い出して無意識に顔が歪む。夢の中で倒れていた少年は若干の外見的違いはあってもかつての自分に違いなく、過去の自分が体験したことを客観的に見るといったなんとも奇妙な夢だった。今はもう殆ど分からなくなった左目の瞼と眉の間に出来た傷が痛んだ気がして、そっと指で押さえる。今でこそこの自慢のイケメン顔に傷が残らなくてよかったものだと笑って言えるが、傷を受けた当時の精神状態は悲惨なもので、覚えていない部分も多いが、自分のそのときの様子を知る数少ない友達から聞いた限り、今生きているのが不思議なくらいだった。
学校に行かなくなったのはその頃からで、以来昼間は引きこもりという不名誉な肩書きを10年近く守る羽目になり、それは現在も着々と記録を更新している。
少なくとも思い出して楽しくなるような内容ではなく、無意識の内に握り締めていたこぶしの内側には再び汗が滲んでいた。がそばに居るときは眠るときでさえ決して外さない右手首のリストバンドを反対の手で押さえ込んで、眠れ眠れと念仏のように心の中で唱えてみても、やはり眠ることは叶わない。朝が来る前のこの時間帯は普段起きているのが当たり前だから、一度休みかけていた体の機能が活発になり始めている。が寝ている以上何もすることが出来ない今、いっこうに眠くならないことに嘆くしかできない。
そうだ、この前頼まれたホームページのデザインでも考えよう―――つい先日依頼を受けた通販会社のサイトの模様替えのための新しいトップページをあれやこれや考えてみるが、なかなかいいイメージが沸かない。それどころか首を吊ろうとしている少年のイラストや鮮やかに散布する血痕なんかが素材として浮かび上がり、これはもう何を考えたところで無駄だと諦めにため息をついた。今日はやけにネガティブな感情しか生起しない。ここ最近は安定していると思っていたのに。
こういうときに飲む薬はパソコンのディスプレイの横に置いてある棚の2段目に無造作に突っ込んである。キッチンに行って水を取ってこようかと思ったが、背中になにやら動く気配を感じてベッドから抜け出そうと床に下ろしかけていた足を引っ込めた。
「いかないで。」
静かな部屋の空気をの呟きが震わす。あまりにもハッキリした声音は起きているとしか思えず、散々物音を立ててしまった自分の馬鹿野郎、豆腐の角に頭ぶつけて死んでしまえ、と心の中で自分自身に罵声を浴びせて恐る恐る壁側を向いてみる。しかし、いつの間にかこちらを向いていたの目は依然閉じたままだ。ただの寝言かと胸を撫で下ろし、ベッドから抜けようとして体をひっくり返そうとしたものの、Tシャツの腹の辺りを引っ張られているような気がして動きを停止させる。案の定の手がしっかりとTシャツを掴んでいた。これが隣家の幼馴染みであれば速攻で叩き落として大きな音を立てながら部屋を出て行けるのだが(むしろ同じベッドで眠るような展開になるくらいなら舌を噛み千切って自害してもいい)、ともなればそうはいかない。それに先ほどの呟きも気になる。よくよく見てみれば眠っているはずのの目にはうっすらと涙が滲んでいる。ああ、きっと彼女も夢の中で普段は忘れている忌々しい記憶を見ているに違いない、とレッドは思った。
レッドが他人から悪意を受けて死にかけ人に会うことを恐れるようになったとするならば、は真逆だ。愛する肉親との触れあいを予期せぬうちに奪われたため人との繋がりが失せることを極端に恐れている。方や人との出会いを恐れ方や1人の孤独を恐れる。性質の異なるトラウマを胸に抱える二人が唯一共通しているのは、お互いがお互いを必要としていることだった。
「何処にも行かないよ。」
レッドはの耳元でそっと囁いて右の親指の腹での涙をぬぐった。嫌な夢を見て心に傷を重ねるくらいなら、起きて夢の恐怖から遠ざかったほうがいいかもしれない。そう思って躊躇いなくその頬に、額に、髪に触れて撫でてみるものの、は全く目を覚まさなかった。案外ファファリンは強力なんだなと驚きと副作用の心配に顔をしかめ、なんとなく親指に付着した少量の水を口に運んでみる。うっすらと塩の味がして、彼女からの分泌液を口にしているのだと考えるとなにやら卑猥な想いがこみ上げてくるが、眉根を寄せて泣いている姿を見ると一瞬でそんな思いは吹き飛んだ。
夢の中のは一体誰の服を掴み「行かないで」と言ったのだろう。いちいち考えなくても分かる。実の父親か母親のどちらか、あるいはその両方でしかない。表立って心の闇を見せないが時折無意識にこうしてすがり付いてくるのを数度経験しているが、彼女が本当に求めているものになってやれないことに歯がゆさばかりが募る。自分はが居てくれればそれだけで満たされるというのに、自分はにとっての不安を溶かしきる存在ではないのだ。あるいはの孤独を打ち消す不特定多数の要員の中の1人でしかない。お互いがお互いを必要としているのは確かだが、その比重はレッドに大きく片寄っていた。
の両親が帰ってこれば、は孤独という不安から開放される。そうすればきっと自分は必要とされなくなるだろう。レッドは胸が苦しくなるのを感じる。同時に、恐怖も。が側を離れていってしまったら、きっと自分は生きていけない。物理的には生きていけるだろうが、精神が耐えられない。昔のように自虐に走る日々が再開するに違いない。右手首をかき切る自分を思い出して、身が戦慄する。
「オレはここにいるから。」
もう一度耳元で囁く。心の裏で呟いた言葉は違った。「ここにいるのはオレだ。」と伝えたかった。今こうしての悲しみと不安を受け止めているのはが求めている父でも母でもなく、レッドという1人の男であることを伝えたかった。同時にこの瞬間に必要とされている人物がレッドであると自分自身に言い聞かせるためでもあった。でなければ押し寄せる不安には立ち向かえない。結局のところ依存しているのは自分だけなのだ、とレッドは日ごろの孤独を埋めるために行動しているかのよう振舞っている自分の虚像に妄想の中で刃物をつきたてた。胸の辺りを刺したはずなのに、血はその左顔面と右手首から流れ出してくる。中途半端なところで現実を反映した妄想だと皮肉りながら、現実では体の下に敷いていた左手での頭を胸に抱え込むように抱き寄せ、体を密着させた。この際が目覚めようが構わなかった。腕の中に閉じ込めてその存在が側にあることを感じなければ、寒さではなく恐怖に体が震えてしまいそうだった。
「…ん、レッド…。」
「…ああごめん、起こした?」
はじめから起こす気で行動したことだ。ごめんもくそもあったもんじゃない。けれども少しの罪悪感が、自分の勝手な都合での眠りを妨げてよかったのかと己を責めはじめる。だがは目に溜まった涙に気付かないまま微笑んで、よかった…と呟いた。
「レッドがどこかに行っちゃう夢を見た。」
「俺が?」
「うん。」
レッドはてっきりは両親を失ったときの夢を見ているのだと思い込んでいたから、予想に反したの言葉に驚く。は起こしてくれてありがとう、とだんだん語尾に行くほど小さな声になりながら呟いて、やがてその瞼を閉じて再び寝息を立て始めた。起きていたのはほんの一瞬の間だったが、レッドにはそれだけの時間と中盤の一言だけがあれば十分だった。レッドが居なくなる夢を見て涙を流していたというのなら、それはレッドがにとって不要な存在ではないということの表れだ。少なくとも今が求めているのは、必要としているのはレッドでありそれ以外の何者でもない。そう思うと不思議と不安は心から消えうせて、冷えと緊張に硬直した体がほぐれて温もりに包まれはじめる。
気が付けばレッドは次の日の朝を迎えていた。腕の中に抱きしめたとの距離が急に恥ずかしくなってそっと離れ反対側を向く。久々に朝日がカーテンの隙間から差し込んで室内に細い線を作っている様子を目にして新鮮な気持ちになる一方、常人にはなんとも思わない程度の光に目を刺されたような気持ちになり、すぐ顔を背けた。重度の眼白皮症を患うレッドにとって太陽光は目に負荷をかける存在だ。暗い空間に出来た光の道は、突然見るにはきつすぎた。顔を背けた先にはがこちらを向いたまま眠っている。普段は壁を向いて眠ることが多いが、今は昨晩起きた際こちらを向いたままになっているのだろう。その目にもう涙はたまっていなくて、レッドはほっとした。同時に体に染み付いた本来の就寝時間がやってきて、再び瞼が重くなってくる。はそろそろ起きて行動し始めるだろう。それまでもう一度眠ってしまおうと、レッドは光から逃げるように頭まで布団を被り、に背を向けて丸まった。穏やかな気持ちで目を閉じる。暗闇にはもう過去の自分の姿は映らず、代わりに幸せそうに眠るの寝顔が眠りに落ちる寸前まで残っていた。パソコンデスク横の棚の2段目に突っ込んだ薬は、もう今のレッドには必要ない。
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リニューアル後初の感想メールに狂喜乱舞して、昨晩原作沿いのピッチを上げると言ったにも関わらずオンラインパロを書いていたら、何故か暗い作品が出来てしまった/(^O^)\
好きキャラをとことん酷い立場に立たせるのが大好きなDOSですみません^p^
2009/12/15