出会いは巡り、環となって
はんかちと傘と
雨粒が空から落ちてくる。目の前に倒れる男の体からあふれ出した血液は、雨によってアスファルトから溝へと流されていった。
まだ生温かい血だ。命の源を失っていく男の体は、やがて冷えて硬直し、銅像のように沈黙するのだろう。
「俄雨、後は任せたよ。」
「はい、雷光さん。」
男を切り伏せた刀にこびりついた血を衣で拭った雷光は、背後に控える俄雨にそう言い、踵を返す。
けれども目の前に立つ少女の存在に気づき、歩みをとめた。
いつからそこに居たのだろう。
少女は雷光の背後に居る俄雨と、今しがた命を失った男を冷静な瞳で見ていた。
殺しの現場を見られた―――。
少女の存在に気づいた俄雨が、焦って雷光を仰ぐ。
けれども雷光は困るそぶりも見せず、静かに少女を見つめ返す。
「キミはこの男の知り合いかい?」
雷光の問いに少女は首を振る。
「そうかい。」
一言呟いて何事も無かったかのように立ち去ろうとする雷光を、俄雨は思いっきり呼び止めたい衝動に駆られた。
けれども遠くなる背中に声を掛ける勇気は無くて、雷光の代わりにその場に居残った少女の視線を気にしつつも、男の体から指紋と髪と血液を採取してファイリングする。
不意に、身に注ぐ雨の感触が消失した。
もう止んだのか、と天を仰げば、水色の傘の内布が視界を閉ざしている。
少女が背後に立って、俄雨が濡れないように傘を差し出していた。
その顔は無表情で、一切の感情が窺えない。顔が綺麗な造作をしている分、不気味だ。
「…綺麗ね。」
「え。」
突然の少女の発言に、俄雨の思考は停止した。まさかこの少女は、男の死体を見て綺麗だと言ったのか。
だとしたら相当頭が逝っちゃっている人に違いない。
今すぐこの場から逃げたい衝動に駆られて、けれども少女の視線が男の体に散布した彼岸花に注がれていることに気づく。
「彼岸花、好きなんですか?」
こんな不審な少女、相手にしないほうがいいのに。
心とは裏腹に、口が勝手に動く。
少女は小さく「別に」と答え、俄雨の傍らにしゃがみこんだ。
視線はずうずうしくも俄雨の手の中の造反者取締りファイルに向けられている。
俄雨は慌ててファイルを閉じたが、既に遅かったようだ。
「殺した人のデータを採ってるんだ?」
ファイルの中身をバッチリ目撃されてしまい、否定できない。
一般人に殺しの現場だけでなく造反者のデータまで見られてしまうとは。
これはいまだかつて無い、由々しき自体だ。
口封じのために殺すか―――。
一瞬脳裏をかすめた恐ろしい道を、俄雨は全力で否定した。とてもじゃないがそんなことは出来ない。
かといって、精神を操作したり記憶を改ざんする術を俄雨は持たない。
こういうとき、分刀としてどのように振舞えばいいのだろう。
仕事の現場を他人に見られるのはこれが初めてだ。
俄雨も雷光程気配を探れないにしろ、それなりに周囲に気を配っていたつもりだったのに、少女の存在にまったく気づかなかった。
己の不甲斐なさに、目頭が熱くなる。何のために雷光のサポート役をしているのか。
「…あの、よかったらコレ使って。」
目の前に差し出されるのは、淡い桜色のはんかち。
俄雨は礼もそこそこに、はんかちを受け取って熱くなった目頭を押さえる。
泣き顔を見られてると思うと恥ずかしくて、穴があったら隠れたい。
「何でこの人のデータを採ってるの?」
「分刀の仕事なので。」
「“ワカチ”?」
聞きなれない言葉だったのだろう。少女は首をかしげて聞き返す。
分刀というのは灰狼衆の造反者取締役だ。灰狼衆でなければその存在も名前も知らなくて当然。
「分刀っていうのは…あ、貴女には関係のないことです。」
あやうく情報を漏洩するところだった。
突き放すように言ってのけると、少女は「そう。」と小さく呟き、何を思ったのか傘の柄を俄雨に押し付ける。
俄雨はさながら街中でティッシュ配りをしている人にティッシュを突きつけられた人のように、反射で受け取った。
「早くあのピンクのお兄さんを追いかけたほうがいいわよ。この辺りは治安がよくないから。」
ぱしゃ。水溜りの水が跳ねる。
少女は俄雨に手渡した傘の下からいつの間にか抜け出して、雷光が立ち去ったほうとは逆に歩いてゆく。
「あ、ちょ、ちょっと!これ!」
左手に可愛らしいはんかち、左手に傘。膝の上に造反者取締りファイルを乗せていたせいで立ち上がれない俄雨は、去り行く背中をただ見ることしか出来ない。
「あの、貴女は一体何者なんですか!?」
せめて素性が分かれば、後日どこかではんかちも傘も返却できるかもしれない。
問いかける俄雨に、少女は歩みを止めてほんの少しだけ振り返る。
「私?私はただの通りすがり。そこらへんにありふれている一般人よ。何者か語るほどのものじゃないわ。」
口元に浮かんだ得たいの知れない笑みは驚くほど綺麗で。
俄雨は遠くなる背中を引き止めることも忘れ、一人その場に取り残された。
果たして何分その場にしゃがみこんでいただろう。
そのうち遠くからガラの悪そうな若者達の声が聞こえてきて、俄雨はハッと気を取り直す。
早く立ち去らなければ、先刻の少女のような一般人に現場を目撃されかねない。
左手のはんかちを制服の胸ポケットに大切にしまいこんで、膝の上のファイルを脇に抱えなおす。
右手に少女ちっくな水色の傘を差して雷光の行方を追う俄雨の背中を、赤い華は、死人の上でいつまでも静かに眺めていた。
「雷光さんっ!」
雨の中、傘も差さずにぎりぎり二人並んで歩けるほどの狭い路地を一人歩く雷光に追いつく。
雷光は振り向かない。横に出るのは恐れ多いが、差し出がましいと思いつつ、少女に託された水色の傘を差しかざす。
雷光の背は俄雨より遥に高いから、背伸びまではいかないものの、腕を精一杯伸ばさなければ、傘の内側で頭を打ってしまう。
俄雨の健気な頑張りに対して、いつもの雷光なら労いの言葉一つかけただろう。けれども今の雷光は労いの言葉すら口に出さないほど、先刻出会った少女の追想に耽っていた。
「…あの人、不思議な人でした。」
俄雨は今まさに雷光が思いを巡らせていた少女の話題を持ちかける。
死体を見ても、分刀の作業を見ても、恐れず平然としていた少女。
普通の人間ならば、驚くか叫ぶか警察を呼ぶか、はたまたその場から逃げるような場面であるのに、のんきにはんかちと傘まで託して、何処かへと消えていった。
己は一般人であるという言葉を残して。
「一般人にしては、落ち着いているっていうか。何かが変っていうか…。」
「お前の目には、彼女が表の人間に映ったのかい?」
「あの人、自分のことを<一般人>って言ってましたよ。」
確かに彼女はそう言った。
雷光はふと歩みを止め、俄雨の顔を見下ろす。
「俄雨、今まで分刀の仕事をしていて誰かに現場を目撃されたことはあったかい?」
「いえ。」
もう何度この仕事のサポートをしたかいちいち覚えていない。
それだけの回数の中で、表の人間に現場を目撃されるのは今回が初めてだ。
「造反者に抜刀するときは、私も細心の注意を払っているつもりだよ。俄雨もそうであるように、常に周囲の気配を気に留めている。もちろん、今日もそうだった。」
雷光は言い切って、再び歩き始める。
俄雨はその言葉に含まれた意図に気づくのに少し時間を要した。
いつもなら気づくはずの表の人の気配。今日に限って気づかなかった。
俄雨ならともかく、雷光ですらあの少女の気配に気づかなかった。
気づかなかったのではなく、気づけなかった――――?
表の世の一般人が忍に対して完全に気配を隠すのは、まず不可能だ。
それが出来るのは忍として訓練された人間のみ。
(まさか。)
死体を見ても驚かず、手向けに置かれた彼岸花を美しいと称した少女。
はんかちのみならず傘まで与えてくれた彼女は、実は忍だというのか。
(じゃあ、なんで<一般人>だなんて言い訳をしたんだ…?)
少女の意図が読めなくて混乱する俄雨を置いたまま、雷光は雨に濡れながら先をゆく。
「また何処かで会うことになるかもしれないね。」
一度繋がった縁は生きている限り永久に続くというから。
その縁が、敵としての縁でないことを、俄雨は願った。
俄雨が少女と再びまみえるのはもう少し先のことである。