真夏の陽炎
真夏の陽炎
生ぬるい風が頬をすり抜ける。
しっとりと汗ばんだ首筋を、つつと水の玉が伝って胸の間に吸い込まれていった。
青い稲に囲まれた、田舎じみた細い道を振り返る。
照りかえす太陽。眩しい陽射しから目を守るようにして手をかざす。
太陽に背を向けて立つ、一人の少年。
「ほらよ。」
ちょこん、と。
少し小さい体躯の彼が、被ったキャップを無理矢理頭に載せてきた。
外したての彼の髪の毛は、しっとりと汗ばんで少し乱れている。
確かにキャップは陽射しを避けれるけども、熱がこもって逆に意識が朦朧としてくるんじゃないかと思う。
現に、渡されたキャップは半端なく汗を吸い込んでいる。
それでも、熱にやられないようにと親切心で渡してくれたことに変わりはなくて、キャップをつき返すという無碍な行為は止めておいた。
真弘先輩とこうして顔を合わせるのは、実に半年振りの出来事だ。
私は声も出せずに、ただただ先輩の顔を凝視する。
先に卒業してしまった真弘先輩は、卒業してすぐ村を出て行ってしまった。
長年夢だったアメリカ大陸縦断をかなえるべく、旅に出たのだ。
大学に進学するつもりは一応あるらしい。
けれども守護五家の役目から解放されて自由の身となり、今まで我慢してきた人生を一刻も取り戻したかったんだと思う。
一年間という長いのか短いのかよく分からない期間、彼は一人で外の世界を巡ると言い残し、私の元から去っていった。
取り残された私は親元に戻るわけでもなく、彼の後を追うでもなく、ただ村に残って平穏な日常を送った。
幸い三年生になってもクラスは拓磨と一緒で、学校も楽しい。美鶴ちゃんだっているし。
だけど―――取り残された気がしていた。
辛い戦いを一緒に終らせて、やっと心が一つにつながったと思えた途端、真弘先輩は去ってしまった。
お互いに告白をし合って、お互いの気持ちを知っているはずなのに、私達は未だに恋人同士じゃなかったりする。
というのも、告白するだけしておいて、肝心の付き合うか付き合わないかに触れていなかったからだ。
先輩がアメリカに渡ってから手紙は一切無し。
アメリカに居るのは分かっていても、広い大陸の何処にいるかなんてさっぱり見当がつかない。
スタイルが良くて綺麗な女の人が大好きなあの人のことだから、向こうでいい人を見つけている…かもしれない。
正直、不安だった。
時が流れるのは早いもので、三年生の1学期はあっという間に終わりを告げる。
熱い陽射しの中、終業式を終えていつもより早めに帰る途中、
「…?」
青々と茂る稲に囲まれた道。
ゆっくりと振り返る先に、キャップを被った中学生くらいの少年が一人。
いや、中学生なんかじゃない。
間違いなく、それは真弘先輩だった。
それからの展開は冒頭の通り。
驚きすぎて、感動の声すら出せずに居る私に、真弘センパイは少し大人びた笑顔を見せる。
身長はそんなに変わってないはずだ。
見た目だって。
だけど、なんでこんなにも大人になったように感じるんだろう。
少し、距離が離れた気がした。
物理的な距離じゃなくて、精神的な距離が。
まだ動けないで居る私の手を、真弘先輩は少し躊躇うように、けれどもいざ握るときは強く握り締めて、先導するように歩き始める。
何も話せなかった。
おかえり、と一言言うだけでもいいのに。
半年振りに現れた真弘先輩に、何一つ声をかけることが出来なかった。
ただ呆然と、手を引かれて歩くだけ。
細く長く続く、青い稲に囲まれた田舎道。
私達は無言で突き進む。
二つに分かれる道。
家に向かうのかと思ったら、家とは逆方向に歩き始める。
何処に行くのだろう。
やがて道は道と呼べなくなり、鬱蒼と茂る緑の草むらに囲まれ始める。
少しだけ、温度が低くなった気がした。
少し前だったら、この場は近寄るだけで息が詰まるようで怖かったはずだ。
だけど鬼切丸は壊れた。
私達が二人で壊した。
だからカミ様たちは静まっている。
恐れるものは何も無い。
不意に真弘先輩は立ち止まる。
細く流れる水辺を前に。
突然、体が強く引かれて
「っ…!!!」
気が付けば私は真弘先輩の腕に抱きしめられていた。
驚きで頭がくらくらする。
風圧でキャップが頭から転げ落ちた。
すっと、風がしっとりと汗ばんだ髪をはらりはらりと巻き上げる。
ああ、涼しくて気持ちいい。
だけど今はこんなことを考えている場合じゃない。
言わなきゃいけない、大切なことを。
私は、恥ずかしさや緊張で震えそうになる体を叱咤するように、背中に回す腕にぎゅっと力を入れる。
そして、今一番伝えたい言葉を口にした。
「おかえりなさい。」
先輩は一瞬だけ息を飲んで、だけど今まで溜め込んでいたものをようやく吐き出すかのように、言う。
「おう、ただいま。」
耳元で囁かれる、優しい声音。
背中に回された腕が、そっと髪を漉く。
なんて心地良いんだろう。
不意に視界が滲んだ。
緑の世界が、おぼろげになる。
悟られないように、先輩の肩に顎を乗せて、強くすがりつく。
久しぶりの再会がとてつもなく嬉しくて、涙がこぼれた。