ごめんなさいありがとう
酷く気だるいと思ったときには、もう遅かった。
気が付けば体が何か硬いものにぶち当たっていて、それが床と気づくまで3秒。
「っ!?!!!マルタ来てー!!早く!!!」
リッツの呼び声。あわただしい足音。
遠くに、マルタの焦った声が聞こえた。
「風邪、ですね。」
ベッドに寝転がるを見て、マリアンナの侍女はさらりと言った。
まるで野次馬のように周囲を囲み、固唾を呑んで見守っていたリッツとマルタ、そして二人に呼ばれて駆けつけたマリアンナは、ほっと息をつく。
突然、が倒れた。
現場に居合わせたリッツはすぐさまマルタを呼んだのだが、駆けつけてきたマルタはあたふたするだけでちっとも役に立たなかった。
仕方ないからベッドに運ぶように指示して、自分はその間に洗面器につめたい水を張ってタオルを持っての寝室に行った。
マルタはまだをベッドの上に運び入れるのに苦労していたから、背中をひっぱ叩いて急かした。
の額は脂汗がにじんでいて、顔が全体的に赤いから風邪だと思ったけど、は異世界人。
もしかしたらこの世界の人ならかからない病気になっている可能性もあるので、急遽呼んだのがよりにもよってマリアンナ。
素直に医者を呼べば早い話だったのだが、このときのリッツとマルタは酷く混乱していて、二人とも頭の中に思い描いた頼れる人物がマリアンナしかいなかったのだ。
けれど二人の考えはある意味正解で、マリアンナは看護師の資格を持つ侍女を連れてきた。
部屋に入るなりベッドに横たわるに飛びつき、顔を真っ青にして取り乱すマリアンナを侍女が引っぺがすのに苦労していたのがついさっき。
「最近流行気味ですから、皆さんも気をつけたほうがよろしいですよ。この薬を飲ませれば明日には良くなっていると思います。」
看護師が勝手に薬を出しちゃいけないとか、そういう規則はこの世界に無いようで。
侍女が出した薬をマルタは受け取って、いきなり包みを開いた。
粉薬だったので、僅かな粒子がふわりと跳ねる。
「マルタ、こぼすなよ。」
「大丈夫だよリッツ、僕そこまで不器用じゃないから。」
「本人が思っている以上に不器用だから言ってるんだよ。」
あーだこーだと言い合いを始めたリッツとマルタを尻目に、マリアンナはベッドの上のにピトリと寄り添う。
額にかいた汗を花柄の清潔なハンカチで拭いていると、が私服のままで寝ていることに気が付いた。
服はじっとりと汗を吸い込んで湿っている。これは相当寝心地が悪いだろう。
「お二方、ちょっとお部屋から出ていてくださる?を着替えさせますから。」
手を伸ばして必死に薬を取ろうとするリッツと、手を伸ばしてリッツが届かないように背伸びをするマルタは、その言葉にぴたりと動きを止めた。
着替え、着替え、着替え。
何度か頭の中で繰り返し、その単語を復唱する。
先に顔を赤くしたのはリッツで、彼はすぐさま部屋を出て行く。
「マルタ!」
閉じた扉が僅かに開き、ニョキっと手が伸びてマルタのチェックのベストを掴んだ。
急かされて、薬をテーブルの上にそっと置いて部屋を出て行くマルタの背中にマリアンナは一言。
「相変わらず鈍感ですこと。」
鈍感なマルタはその呟きにすら気づかず、閉まった扉に背をつけて今更耳を赤く染めていた。
今まさにこの扉の向こうで、マリアンナがの服を脱がしていると思うと…。
「マルタのスケベ。」
リッツはマルタが考えていることをしっかりと把握していた。
というか、マルタが顔に全部出していた。
暫くの間、ドアの向こうでマルタとリッツがギャーギャー言い合う声が聞こえていたが、そのうち飽きたのか力尽きたのか、はたまた二人して耳をそばだてているのか、静かになる。
マリアンナは「自分が、」と前に出ようとする侍女を制しての服に手をかける。
かつて自分が着ていた、胸元にフリルをあしらったブラウスだ。つい先日マリアンナがあげた。
あっという間にボタンを外していく手際のよさに、侍女は簡単のため息を漏らす。
「一体どこでそんなスキルを身につけたんです?」
「ふふふ、秘密よ。」
いつもの調子でバーチの口調で喋れば、廊下の二人に聞こえてしまうかもしれない。
なのでマリアンナを演じる。
マリアンナにしてみれば、これはスキルと呼べる代物ではない。
怪盗は手先が器用でなくては務まらないのだ。
コレぐらい出来無いほうがおかしい。
変に勘ぐる侍女の興味をサラリと流して、を素っ裸にした。
「タオル、取ってくださいな。」
「どうぞ。」
手渡されたタオルは硬くきつく絞られている。
緩く解いて、体を拭く。
その間に侍女は部屋の小さいロッカーの中から寝間着を探し出してきた。
お風呂上りに着るようなタオル地のガウンを差し出されて、マリアンナは再び器用に着せる。
「…あ、れ…?」
うっすらと、のまぶたが開いた。
マリアンナは思わずかじりつく様に乗り出して、赤く火照った頬に手を添える。
「、大丈夫!?」
「まり、あんなさん……?」
何でここに、と声にならない問いかけ。
寝起きで掠れた声。熱のせいで上気した頬。潤んだ瞳。
なんだかやけにどきどきしてきて、マリアンナは限界まで近づけていた顔をさりげなく離した。
別に、ときめいているわけではない、と思う。
だって自分は女性で、も同じ女性なんだから。
「貴女、風邪を引いて倒れたのよ。」
「風邪…私が。」
ああ、道理で体がだるくて思うようにならないし暑かったり寒かったりするわけだ。
まるで他人事のように冷静に判断するだったが、ふとその顔を翳らせる。
何処か痛いところでもあるのだろうか。苦しいのだろうか。マリアンナの心配とは裏腹に、はかすれ声で呟いた。
「迷惑かけて…ごめんなさい…。」
「迷惑だなんて、そんな。」
むしろ貴女の上気した艶っぽい姿が見れてラッキーでしたわオホホ、なんてうっかり言ってしまったらはどんな顔をするだろう。
もちろんそんなことは口が裂けても言えない。けれども背後に控えた侍女には考えていることが筒抜けだったようで、後から嗜めるような咳払いが一つ。
伊達に彼女もマリアンナの侍女をやっているわけではない。
マリアンナも、もう不謹慎なことは考えませんという声明の証に咳払いを返して、にやけかけていた表情をやんわりとした微笑に変え、の頬にその白くて柔らかい指先を這わせた。
「あのね、。私はちっとも迷惑だと思ってないし、それはあの二人も同じことだと思うわ。」
「あの二人?」
「ええ、今まさにドアに耳をくっつけて必死にこの部屋の様子を窺っているあの二人。」
いたずらっぽく片目を瞑って言って見せれば、侍女が音も無く動いて部屋のドアをすばやくあける。
途端に二人の少年が部屋に崩れこんできて、その様子をしっかりと目撃してしまったはベッドの上で目をぱちくりさせた。
「鷺井君。それにリッツ君まで。」
転がり込んできたのはこの家で探偵業を営んでいる探偵Mこと鷺井丸太改めマルタ・サギー。
そしてその助手というよりむしろ家政婦にちかいリッツ・スミス。
完全に硬直してしまった二人に対し、マリアンナは失笑を浮かべる。
「婦女子の会話を盗み聞きだなんて、あまりよろしい行いではないですよ。」
「ははは…、すいません。」
「馬鹿マルタ!お前のせいでバレちゃったじゃないか!」
「え、僕のせい?」
「お前のせいだ!多分、絶対。」
「どっちだよ。」
部屋の入り口に折り重なってあーだこーだと漫才を繰広げ始める二人を見ていると、風邪の辛さも何処かに行ってしまったような気になる。
は思わず微笑んで、そのうち声を上げて笑い始めた。
「あはははっ、もう、二人とも面白すぎるよっ。」
「マっ、マルタのせいでさんに笑われたじゃないかっ。」
「それも僕のせい?」
笑われたことに顔を真っ赤にしながらこれまた怒り始めるリッツに対し、マルタは相変わらず暢気に答える。
このままでは今までの繰り返しになってしまっていつまで経っても終わらない。
マリアンナはパンパンと手を鳴らして二人の仲裁に入る。
「お二人とも、は病人なのよ。」
「あ、そうだった。」
「騒いでごめんなさい、さん。」
犬の耳が付いていたらさぞかし盛大に垂れているであろう表情で、リッツは深々と頭を下げる。
けれどもマルタは謝る気なんて更々無くて、それにリッツはなんだか腹がたって、こっそりマルタのお尻の肉をつまんでやった。
マルタは小さく「痛いっ」と悲鳴を上げるが、リッツは「そんなもの知るか」と視線は明後日のほうを見る。
謝罪したリッツに対し、は逆に頭を下げた。
「ううん、私のほうこそ、迷惑かけてごめんなさい。」
うな垂れるように顔を下に向けるに、マリアンナはふぅ、と小さくため息を漏らす。
は何も悪くないのよ―――と言葉を投げかける前に、マルタが静かに前に出て、が横たわるベッドの傍らに膝を突いた。
「謝らなくていいよ。」
「え。」
「さんはそんな顔しちゃ駄目だ。僕もリッツも、きっとマリアンナさんだって、迷惑だなんてちっとも思ってないから。だからそんな風に悲しそうに謝らないで欲しいな。」
あら、とマリアンナの侍女は言いそうになって、思わずその口元に手を当てて咄嗟の呟きを押し込める。
マルタ・サギーが甲斐性もなくてなよなよしていていざというとき頼りにならないというのはマリアンナの助手であるゴブリンのジャックから散々聞かされている。
だからやっぱり目の前の黒髪に象牙色の肌の少年は甲斐性もなくてなよなよしていていざというとき頼りにならないと思い込んでいたのだが。
「えっと、あのさ、その、うーん。……うまく言えないや。」
やっぱり目の前の黒髪に象牙色の肌の少年は甲斐性も無くてなよなよしていていざというとき頼りにならないと考えていいようだ。
少しだけ変わろうとしていた侍女のマルタに対する評価は、再び最初と同じく最悪になる。
けれどもはマルタが言葉に出来なかった伝えたいことをちゃんと把握したようで、
「鷺井君もリッツ君も、マリアンナさんも、それから侍女さんも、ありがとう。」
にっこり微笑んで礼を述べるに、マルタもリッツもマリアンナも、それから侍女も、笑顔を浮かべて頷いた。
やはりに沈んだ顔は似合わない。いつだって笑って、そして謝るよりはお礼を言ってくれたほうが嬉しい。
それをちゃんと悟ったに対する侍女の評価は、マルタと違って相当高いものになった。
翌日、はマリアンナの付きっ切りの看病のおかげかはたまた侍女の薬のおかげかすっかり体調を良くしたのだが、
「マルタのせいでボクまで風邪引いたじゃないか!」
「え、僕のせい?う、吐きそう。」
「ああ、、どうか私に膝枕を…。」
「マリアンナ様は大人しく私の看病を受けてください。」
狭い部屋には二つの貧相なベッドと、似つかわしくないほど豪華なベッドが一つ。
貧相なベッドにはマルタとリッツが、そして豪華なベッドにはマリアンナが伏していた。
それぞれ頭には濡れた白いタオルを乗せて、青かったり赤かったり紫だったり…とにかくよろしくない顔色で苦しみあえいでいる。
ちなみにマリアンナのベッドは彼女の家から直々に搬入された彼女の寝台だ。
屋敷に戻ればいいものの、わがままを言ってマルタの家というかのいるこの家に体よく居座った。
コレを期に散々に甘えようというたくらみは、生憎侍女によって阻止される羽目になる。
はただひたすら3人の看病をしながら、
「うわあああん、ごめんなさい!ほんっとうにごめんなさいっ!」
散々謝り倒すことになったのだった。